あさがくるまで

 不機嫌なのか、そうでもないのか。いつものように結ばれたサカズキの口元がぐっと絞り込むように固くなったのを見ても、ザクロはまあどちらでもいいかと楽観していた。ほとんど使われなくなって久しい隠し港は人気も無く、誰の邪魔も入らない。予想通りの言葉が発されるのを待っているだけの時間もあった。
 ただ、波音に耳を傾ける。
 そうして幾らか時が過ぎて、黙り込んでいた男はようやく一言目を決めたらしい。聡く察したザクロは、何事も無いかのようににっこりと微笑みかける。それがサカズキを酷く苛立たせると知ってのことだった。
「……恩賞を、断ったと聞いた」
「それをわざわざこんなところまで来て、確認に?」
 こんなところにお前が居るせいだろうとでも言いたげな視線が返されて、女は軽薄さを増す口角を上げた。こんなところまで(きっと、真っ先に!)探しに来た男の胸中を思うと、心底愉快だった。権限を使って呼び出すなり、脅すために覇気を出すなり、すればいいのに――しないものだから、余計に。
「昇進を断るようなもんじゃろう。そこまで考え無しのガキじゃあないと思っとったが……」
「わたしがいつ出世を望みましたか。“大将”のように強くはなるのかもしれませんが……、それが、食べたくなる理由にはならない」
 それに、と続けてザクロは言う。
「海の底なら、あなたの手も及ばないですからね」
「……いがんだ性格しとるのう」
 目に見える程の自信と野心に溢れながら、品行方正で何より忠実――そんな女の、男から放たれる覇気混じりの圧を歯牙にも掛けない鷹揚さが、何に由来するものなのかをサカズキは知っている。
 サカズキは喉の奥から飛び出しそうな叱咤を堪えながら溜め息を吐き、ザクロを見た。そこにはもう、泣きながら己の手を握り返した少女はもう――そこには居ない。走り去るように消えていった面影は、その笑い声にのみ残る。
「お前はなして海軍に入った?」
「あなたにはわたしが海賊に怯えて家に引っ込み、おとなしく震えながら主人の帰りを待って、黙って言うことを聞くような娘に見えていましたか」
「いや。じゃが―――」
「教えませんよ」
 サカズキの口から次の言葉が出てくる前に、女はつよく、そう言い放った。小さな肩に掛けられたコートがずり落ちそうになって、ザクロは慌ててそれを正す。それからふっと優しく微笑み直して、「絶対に教えません、サカズキには」と重ねるものだから、男はもう何も言う気が起こらなくなった。
「ほぉか」
「あれっ、気にならないんですか?」
「……教えん言うたのはザクロじゃろうが」
「ふっ、はは。そんなに物分かりのいいひとじゃないでしょうに、あなた」
 ザクロは一歩を踏み出して、サカズキの元へと向かう。もう一歩を踏み出して、サカズキの顔を見上げる。随分と背が伸びた――遅すぎることを思って、サカズキはザクロへ手を伸ばした。かつて少女だった女は、黙って男の手を頭に受けた。
「でも、そういうところも好きでした」
ザクロ
「嫌われたくなかった。あなたに、……すべてを知られて、失望されるのだけが恐ろしいことだった。だけれどもうわたしは、あなたの姿が見えない夜も、あなたの手に触れられない日も、泣くことはないんでしょうね」
 ザクロの手がサカズキの手を掴んで、そっと剥がした。部屋に迷い込んできた蝶の羽にでも触れるように優しく、まるで、決して傷付けないよう気を遣っているように。
「教えていただいたことは、無駄にはしません。愛していただいたことも、決して忘れません。お世話になりました、サカズキ大将」
 ザクロはサカズキの横を通り過ぎると、そのまま躊躇うことなく離れていく。追うこともせず、捕えるこももせず、怒鳴りつけでもすればいいのに――なにもせず、男はただ、ただ女の背を見つめる。
「待て、ザクロ
 正義の二文字が風に吹かれて揺れていた。
「お前がわしを好いとったとは、知らんじゃった」

 女は軽やかに振り返って、鮮やかに笑う。そして潮風に急かされたような足取りで再び歩き始めると、二度と振り返りはしなかった。

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