
病とは似て非なるもの
この通りで頭上から「アロハー!」と女の声が聞こえてきても、決してそちらを見てはいけない。そんな噂が流れていることを知って、山井豊は眉間に皺を寄せるついでに口角を下げた。頭上から馴染みの声が聞こえる。
「アロハー! アロ……あっ、山井さん!」
見上げた先には、やはり窓から身を乗り出して手を振る女が居た。ハワイの空に不釣り合いなほど青白い腕だ。山井は視線を外し、ゆったりと歩を進める。彼の耳――と、側近たちの耳にも――まだアロハだとかヤマイサンだとかムシスルナだとか聞こえるが、今度こそ他の住民と同じように聞こえない振りをしてみせた。
シアタービルの扉が開く。
一行が落ち着く間も無く誰かが慌ただしく階段を降りてくる音がし、山井は溜め息を吐きながら部下にバールを預けると、息を切らしてやって来た女の細い体を受け止めた。青白い肌、不憫なほど咳き込む姿。ワンピースの布切れ一枚で隔たれた彼女の背中を撫でて、山井は「なにがアロハだ」と呟いた。
胤森は山井の情婦である。
――というのが山井一派の殆どの認識だが、実際のところはどうだろう。山井は胤森に手を引かれながら自室へ戻ると、頬に彼女の口付けを受けて力無く畳へ座り込む。キスはする。セックスもする。ただ眠るだけの夜もある。互いにそれを拒むことはなく、日常のひとつでしかない。だが、…………それだけだ。愛を囁くことも、ない。瞬きでもしている間に死んでいそうな男と消えていそうな女が偶然に出逢って、関係を持った。厄介なのは、山井豊という男には人情があり――胤森柘榴という女には、無かったことか。
「遊びましょ、山井さん」
紅潮した頬。完璧な微笑み。相手は誰でもいいことを知っていた。
流れるように山井へ馬乗りになった女が布越しに局所を擦り付け合うと、男の体は虚しく反応を示す。女は山井でなければならない理由など持ち合わせず、誰からの誘いも決して断らない。だが、胤森は同時に山井以外を自ら誘うことも決してなかった。
――山井さんと他のことをしても楽しくないから。
聞けばあっさりとそう言って二度寝し始めるような彼女にとって、この行為は本当に“遊び”なのだ。その日に着る服を選ぶように、気になったものを買うように、レストランで食事を楽しむように、胤森は気分で男を選ぶ。幸運なことに、またある者にとっては不運なことに、大抵は文字通りのワンナイトの夢で済む。
――けど、山井さんだけだよ。
甘い言葉だ。しかし冷たい、空虚な言葉だった。言っているのが彼女でなければ、享受するのもやぶさかではなかっただろうとも山井は思った。
胤森は意識を他所にやっている男のことなど気にもせず、笑いながら、歌うように喋り始める。
「好きなものを食べて、好きなだけ飲んで、好きなようにセックスをして、楽しみましょう。遊びましょう。どうせここは暗闇。夢はいくらでも見られて、私たちの傷は癒えない!」
一夜限りの興行はいつも即興劇だった。それでも、胤森は演じてみせてしまう。舞台の上に居る限り彼女はいつでも完璧なファムファタルで、幸福と訣別した悪女でもある。
「柘榴」
「はい」
潤んだ瞳。軽薄で、だからこそ完璧な微笑み。
女神が居るとするならば、きっとこんな女だ。
山井は胤森の頬に両手を添えて、その温もりを奪い取ろうとした。体が震えて、舌打ちをする。女の傷口は膿んでいて、自分と似た匂いがする。出会ったときからそうだった。
「お前もバカな女だよ」
だからこうして手元に置いた。だからこうしていることしかできない。