
サイレントインテロバング
ドアホンの小さな画面のなかで震えながら身を守るように腕を組んでいる男が『さっさと入れてくれ』と唇を尖らせて赤らんだ鼻先を鳴らした。
「開いてます」
『はあ?! ったく……』
――だからってそんな乱暴に開けなくても。
それなりに大きな音を立てて閉じられたドアの鍵を後ろ手で掛けたヴェルナーは、無駄に溜めた溜め息を吐いてからオリーブ色のダウンジャケットの雪片を払って、履き潰されたサンダルを放るように脱ぐ。そして霜焼けになりかけの足でのしのし歩きながら「いいか、鍵は閉めとけ」なんて尤もらしいことを言うので、わたしは彼の毛玉が付いたスウェットを笑いながら指差して「随分急いだんですね」と返した。
「そりゃ大家に急かされたせい……っと、ほら」
差し出してきたビニール袋を受け取って、わたしは代わりにハンガーを渡す。ジャケットをかけながら機嫌を直しているらしい――相変わらずよくわからない――ヴェルナーに「これは?」と聞けば、「好きだったろ。違ったか?」と返される。
見れば、確かに。わたしの好きなお酒とおつまみに、ヴェルナーの好きなお酒が二つ折りになったコンビニのレシートごと一緒に入っていた。
「まあ宿泊代だ、宿泊代。ガス管に請求してやりたいもんだが」
勝手に直すと後が面倒だしとかなんとかぼそぼそと言って、頭を掻きながらソファに腰を下ろすヴェルナーはやっぱり上機嫌に見えた。普段と変わらず草臥れてはいるものの、不運な事故で借間を追い出されたばかりとは思えない。
……それにしても、彼がわたしの好きなものを覚えているなんて。
そんなの当たり前のことじゃないの――そう思っていた時があったことを思い出す。小さなことから大きなことまでぜんぶ大袈裟に考えて、見えないものに振り回されていた日々。
「なんだ?」
口の端を持ち上げながらわたしを見つめるこの瞳が、世界でいちばん愛おしくて、宇宙でいちばん憎らしかった日々。
彼は、わたしのはじめての恋人、……だった。
「え、あ。……なんでもない、です」
怪訝に首を傾げてみせる彼は、ヴェルナーは、みんなが思っているよりずっとずっといいひとだ。わたしの駄々からはじまった関係の最後に友情を求めたことにすら嫌な顔ひとつしなかったのだから。
「……なんでもないってことはないだろ」
繋ぎ方から教えてくれた硬い肌膚の手が、そっとわたしの手を取る。引き寄せられるまま傾いたわたしの身体がソファへ倒れ込んで、ヴェルナーの、顔が、すごく近い。
「なあ、ザクロ」
いつも、すこしだけこわい目になるのがキスの合図だった――――今みたいに。
「ヴェルナー、わたし、ッん、ぅ」
冷たいくちびるが重ねられて、ちゅう、と音を立てて離れる。続けざま戯れるみたいに吸い付いてくるヴェルナーはわたしの両耳を塞ぐようにして頭をグッと掴んで逃げ道を閉ざすと、ぬるぬるした熱い舌でわたしの口を抉じ開けて官能を引き摺り出す。
「……はっ――やらしい顔だなァ」
ああ、忘れてない。わたしはこれが苦手だった。
「な、んで……?」
ヴェルナーとわたしは世間一般の恋人像とは距離を置いた、どちらかといえば淡白なお付き合いををしていた。思えば、それを安心の理由にしていたのかもしれない。だからこうして意図をもって触れられることがこわくて、恋の歓びよりも困惑が上回って。都合の良い“もの”になっているのではないかという疑念がはっきりとかたちを持ってしまう前に、終わりにしようと――――
「俺はな、わかったとも言ってないし頷いてもいない。なのにあんたが勝手に終わったことにしてるもんだから俺は、……あー、なあ、ぜんぶ言わなきゃだめか?」
終わったものだと、忘れようと、していたのに。
視界が滲んでいく。どうして涙が出てきているのか、聞いたら答えが出てくるのかな。好きだとは一度も言ってくれなかった口が、愛してるとは夢でも言ってくれなかった彼の口が、気まずそうに一文字に結ばれる。
「言って、ください。言ってくれないと、わからない。……わかんないよ、ヴェルナー」
手の繋ぎ方も、キスの仕方も、恋人とするぜんぶを教えてくれたのに、それなのにたったひとつを教えてくれなかったせいでこうなっているんだから。
「…………わかったよ、わかりました。降参」
ヴェルナーはこの期に及んで悪あがきのようにわたしのからだをぎゅっと抱き締めると、微かに震える声で言った。
「好きだよ、ザクロ。もうあんたと離れるのは懲り懲りだ」