楽園と云う名の白い馬

「――ところでお嬢さん。ハインリヒ・ロッソウ、という画家をご存知ですか?」
 ぱたん。と分厚い本の閉じられる音を合図にしたように、柘榴が顔を上げる。ゲーニッツに倣って本を読むでもなく、麗らかに花の咲き揃う景色を眺めるでもなく、ただそこに座っていた彼女の無感情にも見える瞳。どこか虚なそれを覗き込んで、男は僅かに口角を上げた。心の伴わない、仮面のような微笑みだ。はいともいいえとも返さぬ女の態度に気を悪くしたわけではない。元より柘榴は物言わぬ人形へ喩えられる女であったし、ゲーニッツはそういう彼女のことを気に入っていた。
「ドイツの画家でしてね、大衆向けにシェイクスピアの挿絵なども手掛けていたのですが――ポルノグラファーとして有名なのは、“罪”という作品でしょう」
 女の冷たい手を絡め取り、ゲーニッツの指が重なっていく。親子ほどの歳の差が助長させる不調和など微塵も感じていないのか、昼下がりの空気に相応しくない――男女の仲を想起させる――動きを交えながら。
「端的に言ってしまえば、柵を隔て姦淫する修道士と修道女の絵です。こんな風にね。……おや、私がそんな話をするのは意外でしたか?」
 咄嗟に伏せられた女の迷う視線が、一輪の赤い花へ向けられる。男の視線が同じ花へ向けられて、次の瞬間、鋭いなにか・・・に引き裂かれたように崩れた花が、そのまま風に運ばれていく。
 柘榴の瞳が、動揺に揺れた。細波そのままにゲーニッツへ向き直した両眼には、確りと頷く男が映った。
「人は見かけによらぬもの。私もまた、その例に漏れず……そういうことが言いたかったのです。あなたを前にすれば、――――興味深いことに、我が身にも嵐のような激情が巻き起こる」
 ご存知でしたか。知らないはずだ。でなければ、優しいあなたがあんな犠牲を生むわけがないですからね。立て続けに囁く言葉を受けて、柘榴の唇が恐怖で震えた。寄り添うように、ゲーニッツの手が柘榴の頬へ添えられる。
「怯えなくていい。すぐにどうこうという話ではないのですから。……ああ、そうですね。では、一分ほどで構いません。その目を閉じていていただけますか」
 彼女の意思を尊重するようでいて有無を言わさぬ言葉に、柘榴は従うほかなかった。従わなければ後悔するのは己なのだろうと、萎れ、項垂れながら。
「……フフ、怯える必要はありませんよ。ただ、今のあなたへお見せするにはさすがに――少しばかり、忍びないものですから」
 風が吹いた。幾つかの悲鳴が聞こえた。重たいものが次々と倒れる音がして、花の香を掻き消すほどの血の匂いが漂って、……再び強く風が吹き、すべてが消えた。
「あなたの目覚めは、やはりまだ先のようだ。それでも……」
 きっと、と。ゲーニッツは無慈悲に続けた。無力に震えるばかりの女の耳元で、子供へよくよく言い聞かせるように。抗うことなど赦されないさだめの渦の中へ、彼女を突き飛ばすように。
 優しく告げる。
 “依代”の資格を持つ女の魂を、握り締めながら強く揺さぶるように。
「でなければ、二人で共に還るのみです」

送信中です