幾望も恥じらい身を潜めよう

 鍋どころか肴も無いぞ。なに、君が居るじゃあないか。
 ――決まりきった問答を済ませ、桂は浪人が主な居とする長屋の敷居をふらりと跨ぐ。
 ありとあらゆる者が勝手気侭に出入りする長屋とはいえ、亥の刻も終わる頃にはほとんど誰も居なくなる。その例外がそもそもの取り付けを進めた龍馬であり、隠し刀と比翼の契りを交わした桂小五郎でもあった。
 倒幕を掲げる長州藩の実質的頭目である男と、幕府の内部――将軍とも因縁を結んでしまった浪人が心安らかに恋仲としての一時を過ごせる場所は少なく、二人はたまに同席の叶う酒宴を何食わぬ顔でそれぞれ楽しんだ後は揃って雲隠れし、この長屋へなだれ込むというのが“お決まり”になっている。
「ふふふ、君の隣は飽きないな」
「飽きられたら困る。……進んでいないな、もっと呑め」
「いいのかい。いつもは――おっとっと、皆と口を揃えて程々にしろと言ってくるのに……」
 些細な疑問は酒の前に消える。愛しいひとの隣で飲む酒は格別だ、と口元が緩む。
 桂はすっかり甘えて隠し刀の肩へその頭を預けながら酒杯を傾け、浪人は優しく微笑みながら空いている方の男の手を柔く揉む。しかし互いに警戒心の強い身であれば、積もる話はあれど語れるものは極めて個人的なものになる。食べたもの、読んだもの、景色に天気、そうしていつものように前回の逢瀬にまで話が及んだところで、桂はにわかに居住まいを正した。
「もうあんな呑み方はしないさ。ここで誓ってもいい」
 男にはあの夜の記憶が無い――いや、いつも酩酊時の記憶はほとんど残らないのだが、長屋への道中から目覚めるまでの記憶がすべて抜けているのはあれが初めてのことだった。もったいないことをしたという気持ちよりも、起き抜けに見た景色の惨烈さを悔いる思いが強い。
 浪人は『気にしていない』と言ったが、その目元は腫れていたし声だって枯れきって酷いものだった。さっと隠された肌に残っていた噛み跡は少なくない数で、『茶でも飲もう』と立ち上がったときにはふらついてもいた。一夜に何人切り倒そうが疲れなど見せないあの兵がだ!
 桂は悲痛な表情を浮かべて「君を傷付けたくはないからね」と続けるが、一方の浪人はなぜか眉を顰めて酒杯を持つ桂の手を強引に掴むとまたとくとくと酒を注ぎ始める。
 理由の読めない行動に、桂は今度こそ「いやに勧めるね」と呟く。
「そうか?」
「……どうしてそんな顔をしながら酒をたっぷり注いでくれるのか、聞いてもいいかな。私は君に見捨てられておかしくないことをしてしまったから」
「そうだな。……あのとき、お前は自力で歩けもしなかった」
 桂の酔態を思い出しているにしては愉快そうな浪人が一旦言葉を途切らせると、男の胸板でのの字を書きながら言う。
「酔っ払ったお前を任され、仕方無く長屋へ連れ帰った。そこまではいいんだが……その後、手酷いやり方で抱かれてな」
「ほ……本当にすまなかった。いやっ、ならば尚更だろう?」
「逆なんだ」
 逆。はて、と桂が首を傾げて、その頬を浪人が手のひらで包む。
「良かった、とても」
 しつこいくらいの愛撫の後の乱暴な接合も、酒臭い口にこちらまで酔わされるような接吻も、やめてくれと言っても聞かないばかりか興奮していく姿も、譫言じみて説かれる私への愛情も――――すべてが良かった。
 記憶に無い情事を詳らかに語られるおかげで、然しもの桂も酒盃を取り落とした。そして盃から零れた酒が袴を濡らしていることにも気付かず、隠し刀を食い入るように見つめる。
 常に淡々として感情の読めないその人の頬が徐々に火照り、熱い吐息を洩らしていた。事細かに語れば語るほど感覚が蘇っているのだと知れた。とんでもないひとだと桂は胸中で毒づくが、そんな彼の陽物も存在を主張するように袴を押し上げていたので、浪人は是非も無くそこへ手を添えた。それからすぐ布越しにぎゅうと握り込まれ、桂の喉が鳴る。
「気持ち良すぎて、忘れられない」
「…………ぐ、っ」
「もう一度してくれ。もっとすごいことをしてもいい……してほしい、小五郎」
 君は。君、なんてことを。途切れ途切れに非難しようと桂の口が動いて、その度に浪人が無粋な言葉が出てくるのを封じる。繰り返される内に舌が絡み合う。じゅう、と音を立てて吸い取ったのは男が早く、彼の瞳に理性の欠片も残されていないことを見て取ると、隠し刀は密やかに笑うのであった。

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