墨の一滴

 安政五年。江戸、高輪。
 急な雨の降り頻る中、台場を眺める高台を後にする者が二人居た。一人は長い黒髪を風に靡かせながら深慮を表すように眉間へ皺を寄せ、もう一人は洋酒の残りを確認するためか瓶を揺らして腰に戻す。それが、斉彬の意に従い江戸へ集った大久保利通、並ぶは黒田清隆。後世に於いても雄藩・薩摩を代表することになる人物であった。
「いよいよだな」
 大久保の声に、黒田が力強く頷く。薩摩藩による幕府への蜂起、その準備は着々と進んでいる。家定に嫁いだ斉彬の養女、篤姫を事実上の囮とした鼠取り――井伊の赤鬼に因んで青鬼とも呼ばれ恐れられる間部詮勝を誘き出し、あわよくば捕らえ、さもなくば討ち取るべし。井伊直弼の力を削ぐための強行策に異を唱える者は居ない。彼の者が強権をこれ以上許してはならぬという意志の下で、薩摩はひとつになっていた。
「それにしても、ひどかこっ雨ですね」
「まったくだ」
 黒田の言葉に同意した大久保がそのまま続ける。
「西郷が軒先を借りているとは思えん、先に戻っているといいが。この大事を前に倒れられては困る」
 愛犬を連れて二人とは別行動を取った西郷を心配してみせた大久保に苦笑しながら、黒田は先払いとして前を行く。あの薩摩犬が降雨程度で弱音を吐くとは思えないが、泥まみれになれば人の方が難儀するのは目に見えている。そのことを知っての笑みだ。それきり、二人とも口を開けば江戸への愚痴を滑らせかねないとばかりに押し黙る。とにかく前へ進もうという意思を、草履に絡む泥が邪魔をした。
 藩邸までは近いようで遠い。雨で泥濘む道となれば言わずもがな――と、その時。
「大久保さん、見たもんせ!」
 視界を遮らんばかりの雨にも紛れることのない黒田の声に大久保が短く応えると、直ぐ様「あそこん道傍じゃ」と別の方向へ指が伸びた。薩摩の男児らしく直情のきらいがある男の狼狽が滲んだ顔に、大久保は「落ち着け」と静かに返す。見れば、黒田の指の先には、ひとつの淡い塊――地に臥せった、人の姿があった。今の時世には珍しくもない姿だ。だが、見捨ててはおけぬのだろう。声を掛けておきながら指示を仰ぎもせず駆け寄ってゆく黒田を追って、大久保も街道から外れたその場所へ向かう。
「あんた。おいあんた、無事か」
 黒田が呼び掛け、口元へ耳を近付ける。
「ないごてこげんとっで……」
「生きているのか」
 黒田は頷く。机から転がり落ちた一筆のように倒れるそれは、辛うじて息をしているらしい。一見して、身を鬻ぐことを苦にした陰郎が逃げ出したに違いないと大久保は思った。それにしては仕立ての良い着物が否定する。鈍色に渦巻きの染めが入った袷を着流し、腰には脇差すらも佩いていない。
 黒田も大久保も、今頃になって面倒なことになる予感を覚えた。武士でないことだけは明らかだが、商人のようでもない。側面の一束だけを伸ばした風変わりな髪は泥水を吸って、そこにあったであろう艶のほとんどを消してしまっていた。青白い肌は病人を思わせたが、しかしその瑞々しさが可能性を消してゆく――見れば見るほど、女のようにも見える。
「大久保さん、こいつは」
 幕府に関わりある者だろうか。無言の問いに、大久保は首を振った。
「わからん。だがここまで関わったのだ、掌を返して放っておくわけにもいくまい」
 そして、見ているばかりではどうにもならない。痺れを切らした大久保は黒田に命じて、水溜まりに浸かってしまっていた袂を探らせる。
「……しっかし、大したものは無さそうですね」
 黒田は怪しんだ顔で筆と硯を取り出し、それから畳まれていた懐紙を広げた。
「見せてみろ」
 懐紙にはどうやら何事か書き留められていたようだが、すっかり雨に濡れたせいで二人に読み解くことはできない。
「他には」
 大久保が側に落ちていた藍色の羽織に目を遣る。黒田が探る。
「なにも」
 一層、謎が深まった。野盗に襲われたにしても傷ひとつ見当たらないのだ。大久保と黒田は顔を見合わせてから周りを見渡す。視界の悪さではっきりとはしないが、此処で乱闘があったとは思えない。ただの行き倒れでもないなら、何故このようなところに居るのか。二人が悩んでいると、黒田が「あ」と小さく声を上げた。
「どうした」
「懐硯と筆に――名、らしきもんが刻まれてますが」
「何とある」
「あー……子墨、と」
「……そいは、真か」
「知っちょるもんでしたか」
 黒田の顔が途端に明るくなる。だが、大久保の顔は暗いままにある。
「大久保さん?」
 聞き覚えがあるどころではない――大久保は、〝子墨〟にひどく悩まされた夜もあったのだ。大久保は今一度、倒れ伏すそれを見つめた。子墨。その絵師の筆致が大久保の心を掴んだのは、斉彬に取り立てられて間もなくのことだと彼は記憶している。名を調べ歩いてみた末に掴んだのは、生まれも育ちも所在すら不明でありながら、書家としても名を馳せているということだけだった。だというのに。それが。
 ――それが、目の前に現れた、彼だというのか?
 大久保の心臓が激しく鳴った。蒼白の顔面に手を添えて、「真ならば」と呟く。
 筆。硯。懐紙。もしも子墨その人ならば、仕事道具に違いない。他に何も持たず居たのも納得できる。しかし正しく子墨その人ならば、何故、こんなところで倒れていたのだろうか。まるで、出会うべくして出逢うように。
「その名が、子墨が真にこの者の名なら、丁重に扱わねばなるまい。……そうか、はは、いやまさか、こげなこっにせとは」
 大久保は半ば確信を持って子墨を軽々抱き上げると、戸惑う黒田を尻目に元の帰路に戻ってゆく。いつの間にか、雨脚は遠のきはじめていた。冷えてゆくはずの体は熱かった。自らの熱を分け与うことが叶うなら、今すぐに目を覚ましてくれるのではないかと……大久保利通ほどの人物ですら、己惚れそうになるほどの熱だった。

 はたしてそれは、ある種の予感なのかもしれない。

 一晩明け、例の者に変化があったと報を受けて仕事を切り上げた大久保が来てみれば、気配を読んだかのように藩抱えの医師が出てきた。丸まった背を更に縮めて頭を垂れた医師に、焦りの色は見られない。一息入れた大久保は、毅然として口を開く。
「大事無いか」
「気力の問題ですな。ほんの少し遅ければどうなっていたかわかりませぬが」
「……そうか」
「すぐに意識は戻るでしょうが、些か弱っておられますのは確かです、どうかお静かに」
 障子の戸を引こうとした指先が、俄に震えた。緊張。まさか、と大久保は密かに自嘲する。
「承知した。……ご苦労だったな」
 医師が再び頭を下げる気配を背に、男は子墨の眠る部屋へ足を踏み入れた。屏風の向こうから衣擦れが聞こえる。音を立てぬよう戸を閉めると、大久保は仕切りの端からそっと覗こうとし――直ぐに子墨の横で膝を折った。床の上。唇が微かに色付いたその人が、正に今、目蓋を開かんとしているところだったのだ。
「う、……ぅう、ここ、は」
「気が付かれたか」
「ぼくは……ええっと、……?」
 起き上がろうとする子墨の肩を大久保が抱いて押し上げれば、「どうも?」と首を傾げられる。薄く開かれた瞳は虚ろに室内と大久保を映すが、とても警戒しているようには見えなかった。
「台場の辺りで倒れていた。なにがあった?」
「……なんだったかな」
 青年とも少年とも言えない顔に浮かべて然るべき疑念の欠片も無いことに大久保は勝手な憤りを覚えかけ――発露する寸前で、止めた。代わりに、自身の懐から子墨の名が刻まれた道具の一式を差し出す。
「貴公の荷は、勝手ながら預かっていた。そう悪くもなっていない。懐紙も無事ならばよかったのだが」
「いえ、これさえあれば懐紙など。実は商売道具でして。助かりました、ありがとう存じます」
 大久保から筆と硯を受け取った子墨は、安堵した様子で袂へ仕舞い込もうとし――自分が見慣れぬ柄を身に着けていることに気付いて、大久保を見た。
「着替えまで。ぼくはどうも、説明の付かないほどの大恩を受けたようですね」
「貴公を見つけたのはまた別の者だがな。それも、医師が用意したものだ」
「左様で。いや……それにしても、此処はいったい」
「私の居宅だ」
 それを聞いて子墨は再び、今度は大久保を検めるように見る。普段の大久保ならば不躾な視線を咎めるところだったが、不思議と嫌な気分にならなかった。それどころか、思わずといった具合で愛嬌毛に指を絡めた子墨に対して微笑さえ返した。この場に中村が居たならば、恐らく正気を疑ってかかったやもしれない。
 子墨は気の済むまで大久保を見つめると、「では、ぼくの回復を待ってくれていたあなたは?」と聞いた。大久保はそう問われるのを待っていたかのように居住まいを正すと、恭しく告げる。
「薩摩藩士、大久保利通」
 その瞬間。
「ああ――薩摩の、大久保サマ。そうですか」
 子墨の瞳孔が揺れたのは、大久保の見間違いではなかったのだろう。しかし。
「それでは、ぼくも名乗りましょう」
 そう言いながらふらついた子墨の半身を咄嗟に支えようとした手をさっと握り込まれ、大久保の疑念は霧散してしまった。やおら下がったしなやかな頭が上がる頃にはまんまと引き寄せられ、何故だと思う間も無く、人好きのしそうな笑みを浮かべた子墨の唇から望んでいた答えが音になるのを待つ――――一瞬。
 指と指が絡み合いかけ、淡紅の二日月が綻ぶまでの長い、一瞬の後。
「ぼくの名は、……子墨
 大久保は確かに、己の内で熟した果実の弾けるような音を聞いた。
子墨と申します、大久保サマ。所によって絵師や書家なんて呼ばれておりますが、写真の色付けに艶書の代筆まで、筆を扱うことならばなんでも請け負う……。しがない、徒人でございますれば」
 唄うような口上。ひとしずく垂らしただけで一面に広がるあの黒色のように、墨が香る。子墨は半ば茫然としている大久保の手にその手を重ねたまま、静かに微笑んで頷いた。
 たったそれだけで。
「是非に、覚えておいてくださいね」
 血潮の煮える愚かさが暴かれてゆく。
 大久保は子墨の手を握り返し、口を結んだ。

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