ピアノレッスン

 リターニアの貴族の生まれであると噂されるその男は、ロドスの重装オペレーター、ツェルニーの古い知人としてロドス・アイランド号を訪れた。彼は優れた調律師であり、自由な音楽家でもあり、同時に源石融合率の高い鉱石病感染者でもあった。

「おや――そこに居るのは、トターくんじゃないか」
 ヴィオラのように広がる声が、講堂の隅に居たオペレーターの名を呼んだ。
 ここでなくても良く通るその声に呼ばれてしまうと、誰であっても顔を上げてそちらを見るしかなくなる。トターは壇上で穏やかに微笑む男に向かって手を挙げて応えると、「どうしたんだい、こっちへおいで」と言われるがままに近付いた。
「どうも、ザクロさん」
「坊やが演奏会を開くと聞いてね。どうしてもこの手で整音しておきたくて」
 ポン。鍵盤を弾いた力強い指は、たった一音だというのに胸を打つだけの力が宿っている。実のところ調律の始めから静かに観察していたトターは、なるほど、と内心で独り言ちた。確かに音が違って聞こえていたのだ。やっと何をしていたのか合点がいった。
 本物の音楽家だよ――いつか聞いた言葉の意味を、トターは実感を以て受け入れていた。
「ちょっと弾いてみるかい、トターくん」
「……いや、前にも言ったが俺は」
「おや、そろそろ気が変わったかと思ったんだが……」
 二人の出会いは、決して印象的なものではない。
 だけれど、不思議と覚えていた。それはツェルニーがロドスを離れている期間に、ザクロが代わりに子供たちへピアノを聴かせているところだったはずだ。楽しそうだった。そんな理由で近付いたトターを、彼と子供たちはあたたかく迎え入れた。
「音色に誘われて来てくれたんだね」
 ザクロは出会いの日も同じことを言った。
 まるで、それだけで心を許すに値するのだとでも言うように。
「気が変わっていなくとも、せっかくだから教えてあげよう。トターくん、座りなさい」
 さあさあさあと勧める勢いに――――負ける。
 どうにもこの声に逆らえない。トターは苦笑を浮かべながら、ツェルニーに合わせて用意された椅子へ腰を下ろした。それほど身長が変わらないからか、大して違和感は覚えなかった。
「右手をここへ。……そう、左手も。背筋は伸ばして」
「一応言っとくが、本当にこういうのとは縁が無かったんだ」
「じゃあこれがファーストダンスか。それならワルツがいいね、僕はワルツも好きなんだ。大丈夫だよ、簡単さ」
「それに俺は目が――」
「指の位置はこのまま変えないで」
「…………わかったよ」
 繰り返しを教えるからね、そのまま続けて。
 トターはその通りにした。
 リズムに乗ったら僕も一緒に弾こう。大丈夫、そのままだ。
 トターはまた、その通りにした。
「よし、繰り返して」
 ザクロの長い腕がトターを丸ごと包むように背中側から伸びてきたかと思えば、拙い繰り返しのリズムに合わせて“曲”の体裁を作り上げてゆく。聴いたことのない曲だった。ツェルニーの曲かもしれない。ザクロ自身の曲かもしれない。まだ聴いていたいという気持ちが、トターの指を動かし続けた。
 トターの後頭部に当たる男の胸部は源石結晶で変異している。
 ロドスに来なければもっとはやくに心臓まで到達していただろうとザクロは言っていた。それでももう長くはない。近く、彼は死ぬだろう。避けることのできない事実だ。
 三拍子。
 ザクロの心音は、夢のように穏やかだった。
 三拍子。繰り返される、三拍子。
「いいぞいいぞ、トターくん。坊やが放っておかないかもしれないね……あはははっ」
 やがて終わる三拍子を、時の許す限り続けている――――
 続けてゆく。

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