
ふたりだけの知るところ
「亮」
――臥龍、諸葛亮。
赤壁の戦いを経て、神算鬼謀を超えた力を持つとも噂されるようになったその男を、気安く呼ばう声がする。諸葛亮は、夢か、と独りごちた。筆を執っていたはずがいつのまにか午睡に興じてしまっていたらしい。彼は窓から差し込める夕陽の烈しい眩さに開きかけた目蓋を閉じると、夢にまで見るような声が「寝坊助め」と言って、その拳がやわらかく頭に落とされるのを待った。いつものように、息を詰める。睫毛が揺れる。それから、いつものように名を呼び返した。
「……柘榴」
「なんだ、亮」
「…………柘榴、なの、ですか?」
「出仕したかと思えば、相変わらずの寝坊助だ。困ったものだな、もう臥龍ではないのだろうに」
諸葛亮は目を見開いて、細める。眩しいと感じていたのは夕陽ではなく、このひとから放たれる光だったのだとようやく気付いた。ちらりと見てみれば、外はすっかり日が暮れて、微かに星すら見えている。
目の前に立つ女は、ゆるやかに微笑みながら諸葛亮に手を伸ばす。今では敵にも味方にも畏れを抱かれる彼の帽子を奪い取ると、柘榴の手はすぐに諸葛亮の頭を撫でまわし、顔にはぺたぺたと触れて、髭の毛先で遊んだかと思えば、優しく、やさしく男の髪を梳いた。
「――生きていたのですね、姉上」
諸葛亮も無策に微笑む。彼が文字を知り、言葉を知るよりも前から、柘榴はこのように諸葛亮へ触れてきた。
神仙に弟子入りするのだと言って聞かなかった姉が消えてから、とてもとても長い年月が経った気がする。徐州で別れた頃となんら変わらない彼女の姿が、諸葛亮の時の感覚を狂わせた。
「本当に、仙郷へ辿り着いてしまったようで」
「うん。おまえに土産もあるんだよ」
そう言って、柘榴は虚空から白扇を取り出して諸葛亮に渡す。
「これはこれは。……約束を守っていただけただけでも僥倖だというのに」
「嬉しくない?」
「まさか。ありがたく使わせていただきます、姉上」
「ああ、うん。ならいいんだ、よかった」
諸葛亮は白扇を机に置くと立ち上がり、今度は自分から柘榴に手を伸ばし、彼女の髪を手で梳いてみる。瑞々しく滑らかな頬に触れ、高さを追い越してしまった頭を撫でて、「なぜここに」と、震える声で柘榴に問うた。
「亮」
柘榴は返す。
「おまえに会いたくて、帰ってきてしまった」
二人は額をぴたりと合わせると、鏡合わせに笑う。肩を揺らして、声を上げて、まるで、つがいの龍が互いを求めて鳴き合うように。