この世は極めて楽しい地獄

「暇潰しに覗き見ハッキングか。趣味が悪いな」
 その声が誰のものかを理解するのと、肩に手が置かれたのはほとんど同時だった。
 反射的にベンチから立ち上がろうとした体を片腕のみで易々と押さえつけられる。その感触(感覚、とも言うべきか)には厭な思い出しかない。嫌悪感を隠すことなく犯人を睨めば、「遅れたのは謝るよ」と悪びれない態度が返された。言っておけば丸く収まる良い言葉だ。使い手を選ばない尻軽な言葉でもあるが。
「……帰ればよかった」
「そんなに拗ねるなよ」
「信頼の置ける筋から流されてきた匿名の暗号を解いて、それだけでも面倒だったのに数時間は此処で待機してた。重要らしいと聞いてたから、とってもお利口に。すぐそこのカフェにも入らずに。褒められたいくらいなのにこの仕打ち?」
 そう言えば、ジョルディは重ねて「だから、悪かったって」と思ってもなさそうに返す。
 どうせ私のところに流れてくると見越して、私の仕事相手に伝言役を任せたのだ――誰にも悟られない、私をも騙す遣り口で。私が受け取らなければ私以外の誰かが此処で待ち惚けて、ジョルディは同じ方法をもう一度試す。思い当たるパスワードを一つ一つ試してみるように。卑怯だが利口だ。ただ呼び出しても私に繋がらないことをわかっている。
「けどな、オレはアンタとゆっくり過ごすために面倒な仕事を手早く片付けてきたんだ。完璧にな。どう考えても褒められるべきなのはこっちだろ」
 同意を求めるように後ろから回された腕。さりげなく付けられた香水のような、彼の言う仕事の名残が香り――ジョルディ・チンがどういう人間なのかを改めて思い知らされる。昼下がりの公園、二人はアンバランスな恋人同士のようにも見えるだろう。
 だが、この男の腕は、今は優しく包むようでも、その気になれば簡単に私の首を折ることができる。
 ぞっとしない。離れてくれるよう頼もうかと、胸の辺りで交差するジョルディの腕に手を重なれば、なにをどう勘違いしたのか、あろうことかその唇で私の耳を挟む。生温い吐息がかかるのと同時になりふり構わず抜け出そうとした体を、男はまたしても簡単に掌握した。
「おいおい、落ち着けって。いきなりどうした」
「なにを」
「なにを……って、わからないのか?」
「……ひ、人の目がある場所で」
「ああ、カメラもある。アンタの同類も今まさに覗き見してるかもな、見せつけてやろう」
 彼がそう言い終わるのと、首筋に微かな痛みが生じたのは、ほとんど同時だった。

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