
どうせなら運命に
人気の無い駅前の駐輪場。
死にかけの蛍光灯がチカチカと点滅しているだけの暗がりに、経年劣化したアスファルトの不規則なひび割れ。真夏以外は見向きもされないくらい古びた自販機を横目に自転車の鍵を取り出そうとした瞬間、足元に転がってきた空き缶がスニーカーの手前で止まる。
蹴り飛ばすか、無視するか、ゴミ箱へ捨ててやるべきか。それにしてもチェリーコークの愛飲者がこんなところにも居たなんて。と、膝を曲げながら思わず笑みを溢れそうになって――自分の影が異様に伸びていることに気付く。「ドフィドフィ、昨日の今日でこうも警戒心が薄れるとは。平和ボケも極まっていっそ憐れだな」 男の声。咄嗟に振り向く。
「手間は省こうじゃないか、胤森柘榴」
瞬く間に絡め取られた両腕をそのまま軽々と持ち上げられ、爪先が地面から離れていく。出来事を順番に認識しようとする間にすべてが終わっていて、男は、十人に聞けば十人が揃ってこれは悪人の目だと評するだろうそれを細めてこちらを見つめていた。……私は、この人の名を知っている。覚えたばかりだった。
「オルテガ、さん」
「おまえ、――ハッ、調べたのか。ご苦労なことだ。それじゃあオレが悪行超人だということもよぉく知ってそうだな?」
「友人が、超人プロレスに詳しくて。……中南米予選のことも、聞きました」
人殺しだ。人殺しに出会すなんて、考えたこともなかった。それも、ただの人殺しじゃあない。彼は人間を超える力を有する超人で、そういったことには疎い私ですら聞いた覚えのあった人物を卑劣な手で苦しめた本物の悪党だという。けれど、――――とても信じられない。
悪行超人に憐れまれるほど“平和ボケ”しているのは事実なのだろう。現にこうして、彼の手で拘束されている状況から逃げ出そうともしていない。諦めている、違う。タイミングを待っている、違う。高を括っている、違う。違う。どれも違う。
「……調子が狂うぜ。少しは怖がるもんだと思ってたんだが」
「私にとっては、恩人ですから」
出逢いは、二十四時間前に遡る。
いつものように薄暗い駐輪場だった。いつものように鍵を取り出そうとした私を取り囲んだ男たちが居た。その中のひとりが手を伸ばして、服を掴まれかけた瞬間。訪れたのは忘れ難い光景だった。男が車に轢かれた人形のように吹っ飛ばされ、緩やかな坂道を勢いそのまま転がり落ちていったのは、一瞬の出来事だったように思う。
そしてお世辞にも善良そうには見えない男たちを文字通り蹴散らしていったのは、覆面姿の、奇妙な格好で、やけに筋肉の発達した謎の人物。苛立ちでもぶつけるようなとどめの一撃を腹部へ食らった男がぴくりとも動かないことなどどうでもよかった。
『さっさと行け、警察が来れば面倒なことになるぜ』
――と、告げて去った超人が、いったいどうしてまたこんなところに来たのだろうか。
「正義超人なら放っておいたとこなんだろうが、おまえも運の無いやつだ」
「え?」
「恩返しをせびりに来るような悪党に助けられたことを悔やめと言ったんだよ」
「……どうしてそうなるんでしょうか」
「わからねぇやつだな。オレは、おまえを、攫いに来たかもしれねえんだぞ」
低い声音でそう告げながらオルテガさんは持ち上げたままの私の体を更に高く掲げて、粉砂糖を篩にかけるときのように揺すってみせた。怖がらせているつもりなのだろうか。だとしたら、怖いと思えなくて申し訳ない気持ちになる。
「なんとか言ったらどうだ?」
「構いません」
「ああ、いいんだぜおまえが泣いたってオレは……なんだって?」
「構いません。正義超人は来ませんでしたし、悪行超人がなにをするのかもよく知りません。私はオルテガさんに助けられたから此処に居るので、――あなたに恩返しをしろと言われたら、拒む理由もありません」
「バ…………バカなのか、おまえは」
「そ、そうかもしれない、ですけど」
動揺したらしい彼の手が緩む。落下しかけた体、ほとんど反射で伸ばした腕は、結果として逞しい首に巻き付いた。ココナッツのような甘い匂いがする首元へ顔を擦り寄せると、素早く引き剥がされて地面に降ろされる。
「おまえは――おまえは、逃げようとしろ」
「逃げて、ほしいんですか?」
「……いや。逃げようとするなら、逃してやろうと思ってたってだけだ。そのつもりだったんだ」
「じゃあ、……どうしますか?」
十人に聞けば十人が間違いなくこれは悪人の目だと評するだろう。
「おまえ、もう逃げられると思うなよ」
それがなんだというのか。それが、私の感情に影響を及ぼすことなどない。微笑みかければオルテガさんは黙って私を見つめてくれた。威迫を掛けようとする睨みのなか、チェリーコークの泡のように立ち上る揺らぎを見つけてしまった。