
やさしいおとしかきこえない
あなたが思うよりもわたしは今に満足していたし、生きていくのに充分すぎるほど幸せだった。強く頼もしい良き夫に、愛らしく賢い我が子、数え切れぬほどの忠実な臣、誇らしく思えた民の笑顔、私の手で築き、守ってきた素晴らしい国。――だからこそ、憐れむように、憐れむために触れられる、この意味がわからなかった。
わたしの頬に添えられた仙人の手は年老いた男の有り触れた感触で、そして不思議と胸が暖かくなる。幸せだと思った。幸せだと思えた。それなのに、左慈、あなたはどうして昔と同じ表情をしているの。
「そなたを亡うには些か早すぎる」
「まだ生きているよ」
「しかし、その僅かな灯火も潰えようとしている」
「……ふ、此の期に及んで意地の張り合いか」
「小生は事実を述べているまで」
「わたしだってそうさ」
そして、沈黙。
感情の凪いだ瞳の中で、死にかけているわたしの口角が上がる。ほんの少しも楽しげにしない仙人は、生涯を費やしても笑いやしない。いつだって笑っているのはわたしだけだ。
あなたの憂いを払おうと尽力してきた。あなたが頷いてくれたらなんでもできた。あなたのためになんでもできた。槍を持ち、剣を振るい、斧で薙ぎ、幾千の屍を我が罪として。
なぜ。なぜ、それでもまだ、わたしのためにわらってくれないのか。わたしたちの始まりだった無意味なようで意味のあった問答を思い出し、わたしはまたひとりで楽しくなっている。
「最後に教えて、左慈」
「如何なることでも」
「どうして、そんなおひげなの?」
「……柘榴、」
懐かしいだろう。音にならない言葉を伝えた。あなたは苦しそうに目を細めて、その瞳から涙が流れていかないことを悲しんでいた。
「柘榴」
――ああ、左慈。あなたの声が聞こえる。
人払いはしているから、何時何処からでも去るといい。目蓋を閉じれば見えてくる、あなたの帰る空が青い。なにかをどこかで間違えていたのだとしても、それは変わらないだろう。あなたが頷く。あなたが頷いて、だのにずっと離れていかないものだから、わたしは。わたしにはもう、なにもないのに。