奈落に暮らす

「特地解放機構対幽魔特別部隊所属、胤森ざくろと申します。……お、お怪我は?」
 ――――それが出会いだ。
 差し伸べられた手には茅場を通り抜けてきたのだろうと思わしき傷。鮮やかな血が滲んでいた。月のように白い指は氷のように冷たく、眼差しは化け物を一掃したばかりだというのに凪いでいた。この世界・・・・の北信愛が取ったのは、そんなおんなの手だった。

「ふむ……これをわしに? さて、また面白きものですかな」
 剣吉けんよし城の一室で向かい合い、信愛はざくろから渡された包みを開く。
 なんとも曖昧に首を傾げてみせる特別な客人に礼儀を諭すつもりはなかった。重要なのは彼女が経験豊富な陰陽師であり、理由はどうあれ未知の技で人民を救おうとする者であり、そして北信愛の味方となっていることだ。
 都から遠く離れれば離れるほどに術の使い手は少なくなる。三日月の丸くなるまで――南部晴政が築いた版図は広大だったが、しかしその例外ではなかった。疑念を交えつつも迎えられた胤森ざくろが“未来”なる場所から持ち込んだ“結界発生装置”で化け物を遠ざけるまでは、不寝番を立てつつ犠牲を受け入れるしかなかったほどに。
 だが、信愛たちにとって予想外だったのは、ざくろが篭絡せずとも思い通りになることだった。化け物が出たと聞けば勇猛果敢な将たちより先に駆けてゆき、僧侶の手にも負えぬ状態だと聞けば未知の道具を携えて癒やしにゆき、近頃ではざくろが通るぞと聞けば民は手を合わせて拝むようにもなった。
 そして、彼女は必ずそんな民の前で立ち止まる。それから、彼等の手を取って言うのだ。
 ――あたしはそんな立派なものじゃありませんから。
 信愛は「なんだとしても、ありがたい」と言って目を細めながら、ちらりとざくろの様子を窺った。彼女の頬はいつものように林檎のごとく染まっていて、眼差しはいつものように凪いでいる。
「これは、薬……でしょうか」
 信愛が広げた包みの中からは、白い粉のようなものを包んだ薄紙が幾つか出てきた。連想されるのは、一度彼女と三戸さんのへ城で別れる際、信愛に中身を飲み下すよう言い含んで手渡してきた薬包紙のことだ。命の恩に懸けて従ってみれば翌日には気の塞がったような心地が晴れ、久方振りに食事を楽しめたのを覚えている。
「の、飲まないでくださいね。それは、き、清めのお塩ですので」
「――というと、魔除けの類ですかな?」
 ざくろの言葉を受けて、信愛は訝しげにその塩を見る。厄がつくのは避けられぬ定めだ。慰めのつもりだろうか、と男が無意識に浮かべた自嘲の笑みのせいか、疑われていると思って慌てたのか、ざくろは座したまま滑るようにして信愛との距離を詰める。
「土地から漏れ出たり、ば、化け物が発する邪気から身を守ることができます。……あ、あたしが清めたものですので、信頼に足るかはわかりませんが」
ざくろ殿が、手ずから?」
「……あ、その、やっぱり、余計な気を」
「いえ――お心遣いに感じ入っておりました」
 信愛は俯いてしまったざくろの顔を覗き込むようにして彼女と視線を合わせ、にこりと微笑む。安心させてみたかった。いま、自分が彼女にそうしてもらったように。
「このようなこと、異郷で心細くしておられるはずのあなたに吐露するものではないでしょうが」
 今度はざくろが信愛の瞳を覗き込むように見つめる。穏和な印象を受ける目元は、だのに冷たく、静かで、凪いでいる。
「人ならざるものが相手であっても、戦は戦。……辟易としておりましてな」
 そこまで言って、信愛は口を閉ざした。閉じざるを得なかった。
「信愛さん」
 何故。
 どうして――そんなに、なんでもない・・・・・・貌ができる。
「あたしは、い、戦のあるこちらがすきで、こ、ここに居ます、から。信愛さんが思っているほど、つらくはありません、よ」
 どうしてそんなことが言える。
 知らないからだ。信愛はそう思った。そして自ら、否定した。ざくろ畏れてしまいそうなこころを鎮めながら、彼女に返す言葉を見つけた。
「ですが……――あなたに、この奈落は似合いませんな」
 信愛が言うと、ざくろは眉尻を下げて視線を巡らせた。どう返そうか迷っているようにも、何故か、込み上げてくる嗤いを堪えているようにも見えた。それからたっぷりの沈黙を経て、ざくろははっきりと言った。
「……あたしにとっては、違います」
 林檎の頬が熟れて溶ける。
 ああ、もしも化け物が尽きたならば、もしも戦が終わるときが来たならば、このおんなを殺してしまわなければならないのかもしれない。
 信愛はそんな予感を呑み込みながら、ざくろの方へ手を伸ばした。仄かな熱を宿す頬に指が触れる。恋も知らないような貌で見つめ返してくるこのおんなの、その手をはじめて取ったときからくちづけたくてしかたがなかったようにも、思った。
「ここは極楽ですよ、信愛さん」
 ――――いいや、奈落だ。なぜわからぬ。
 蓮華ではなくその胎にこそ子が宿るのだと教え諭せばいいのだろうか。信愛はざくろの唇を撫で、蜜を垂らす漿果の幻覚に喉を鳴らした。
「目覚めながら見ている夢のような、極楽です」
 ざくろは信愛の指をやさしく吸うと、彼を見つめたまま笑みを深めた。ぬくもりのない笑みだった。悪魔の手を取ったのは彼だった。
 彼が選んだことだった。

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