
支え合うこともなくてもひとは人
かぶき町の隙間を縫うようにして飲食店を構えたのが、数年前のことになる。
同心をやっている常連が気持ちだからと持ってきてくれた周年祝いの花を持ち帰り、今夜は牛乳パックにでも活けておこう――兎にも角にも食べて、食べて生きなければならない。そんな持論を支えてくれるちいさな店は、やっと安定した軌道に乗ってきたところだった。
お腹が空けばなにもできない。
考えることも、動くことも、生きようとする気持ちすら湧かなくなってしまうものだ。だから食べなければならない。炊き立てのごはん、温かいみそ汁、好きな漬け物も見つければいい。好き嫌いだって持てばいい。
だから、生きていくために必要なのは決して――――決して、人を斬ることなんかじゃない。
誰のものかもわからない(きっと朝のニュースかなにかで知ることになる)血の染みた財布がキッチンシンクに置かれている。最悪だ。と、呟きながらゴム手袋越しにそれを掴んだ。邪魔だった。気付けば扱いに慣れてきた自分が居る。
そして問題の種を持ってきた張本人――布団の中で落ち着きなく体の位置を直し続ける男を見た。これが宿代のつもりなら、その無駄な気遣いを他に回してほしいものだと思いながら。
「似蔵、ごはんは食べたの?」
ゴム手袋を片付けて、ついでに冷蔵庫の中身を確認しつつ聞いた。勝手に食べたりはしていないようだった。
「おいおい、アンタまで目が見えなくなっちまったのかい。俺は寝るんだよ」
「食べてきたの?」
「……気分じゃなくてねェ」
数奇な巡り合わせは、懐かしくも変わり果てた男を運んできた。
体が馴染むところを見つけたのか、すっかりおとなしくなって横たわる姿は、病に伏せたときのそれと似ている。過去が、記憶が、過ぎ去ったばかりに美しいだけになってしまった思い出が、人を殺してきた人間に対しては不適切かもしれない想いすら抱かせてくる。
「似蔵、ちょっと待って」
帰宅に合わせて炊き上がるようにしておいた炊飯器を開ける。
「なんだい」
「まだ寝ないで」
「はァ?」
茶碗に腕を伸ばそうとして、思い直し、水で濡らした手に塩をまぶす。それから熱々の白米を手のひらに盛った。昆布の佃煮も梅干しも切らしていたものだから、塩だけだ。気持ちばかり形を整えながら傍に寄ってみれば、似蔵は鼻をすんすんと鳴らしながら顔を顰める。
「気分じゃないだけなら、お腹は空いてるはずよね」
似蔵の眉間に皺が増えた。
「そんなにしつこい女だったかね、アンタは――んぐ」
「あなたのせいですっかり心配性になっただけ」
血色の悪い唇へ押し付けたおにぎりは、意外なほど、ぎこちなくも貪欲に見えるほど素直に、彼の口の中へ入っていく。
「おいしい?」
ゆっくりと噛まれて、飲み込まれるそれは、少なくとも夜明けまではこの人斬りを生かすだろう。目が覚めたら何処かへ消えてしまうこのひとを、きっとしばらく生かしておいてくれるだろう。
これは罪だ。
「ねえ似蔵、おいしい?」
「しょっぱいよ」
「あ、そう」
塩味、歪な、私の罪悪、過去と未来。それでも生きていてほしい。