腐食

 ――また、花が。
 滞在先のホテルを選びたくなるようになったのはいつからだっただろうか。プライベートやセキュリティーを気にするほど繊細でもなければ、名が知れているわけでもないというのに。けれど、何をしても意味は無い。私はいつも通り、当然のようにベッドの上へ置かれている花を手に取ると、瑞々しい花弁に一瞬鼻先を寄せ――ゴミ箱へと放り投げた。すべての感情を上回る恐ろしさが、逆再生された汗のように背筋を駆け上がる。
 世界中の何処に居ても贈られてくる花に法則性は無く、しかし、いつも美しく、香りの強いものだった。時には蜜すら残る花が放つ匂いは一晩中部屋に残り、夢の中にまで香った。まるで、私を追う、この花の贈り主のように。

「ミス・胤森、こちらへ――ジャン・フィリップ様がお待ちです」
 格闘大会の主催者の名前や肩書き、に興味は無かった。だが。……ジャン。ジャン・フィリップ。こんな大会を個人名義で開いてしまうくらいの金持ちだというのに、まるで聞き覚えの無い名前だ。いや、開会式で聞きはしたのだけれど。
 すぐに、ということだった。
 控え室から着替えもせず、滴る汗と共に大理石を踏み締め、見るだけでそうとわかる高級な絨毯の上を進んでいく。半端な止血は通り道を血で汚した。それでも構わないというのだから、どういう類いであれ変人には違いあるまいと思う。変。そう、変なのだ。優勝者は別に居た。
 準優勝でもない選手わたしを、どうして――疑問を抱きながら通されたVIPルームにジャンの姿は無く、それでも、その名に相応しい調度品が私を歓待する。ソファに身を沈め、二つ並んだグラスへ傍らのボトルからワインを注いだ。詳しくはないが、これも当然のように上等なものなのだろう。と、最早麻痺してきた感覚で思う。どんな企みがあるのかは知る所以も無いが、ここまでされれば悪い気はしないものらしい。
 しかし。
 しかし、気になるのは―――部屋に満ちている、これは。
「お呼び立てした身でありながら、お待たせしてしまい申し訳ありません。少しばかり確認したいことがあったもので……ああ、」
 花の、香りだ。
「良かった」
 囁き声が脳髄をくすぐる――この声の主が、花の贈り主だとすぐに悟った。ほとんど同時に、私を此処に呼んだ意味も。引き攣った喉からは悲鳴も上がらなかった。それを憐れむかのように、乾き、皺の入った、年老いた男のそれだとはっきりわかる掌が、私の頬を包んでいる。
「あなたは、人間が持つ五感と呼ばれるものの中で最も記憶と深く結びついているものをご存じだろうか」
「……っは、は、……っ、は……」
「嗅覚です。嗅覚から送られてきた情報は人の感情を管理する部位へ伝わり、海馬と扁桃核が反応を起こす。そこからは、あなたが身に付けてきた技術とそう変わらない。繰り返せば繰り返すほど刻まれていく。そして、匂いを拒むことは、難しいもの……そうでしょう?」
 なにを、言っているのだろう。
 言葉の意味が理解の手から滑り落ちていく。ぼんやりと惰性でスクロールしていたタイムラインにパッと現れた無修正のグロ画像を見てしまったみたいに、私の思考は止まっていた。ぐ、と顎を持ち上げられる。強制的に見つめ合うこととなった男の瞳は、落胆の色を濃く宿しながら、しかし視線を逸らすことも、私を解放しようともしない。
「しかし、……は随分と恐ろしいものだったようですね。そのまま子供のように、情動に任せて泣いてしまいますか。それもいい。もっと、よく見せてください」
「……どう、し、て……っ」
「どうして? ふむ……あなたは本当に、この期に及んで、そんなことが知りたいのですか?」
 男は私の問いを鼻で笑う。
 それからつまらなさそうに――捻くれた子供のように煩わしげに、どこか期待を滲ませて、口を開いた。
「どうして。私の目に、あなたが特別に映るのか。何故、取るに足らない存在だとわかった今でも、こうして欲しているのか。その理由を知りたいのです。ただ、それだけ。……それだけのことですよ、今はね」
 花の匂いが一層濃くなる。
 男の纏う香りだと気付いた時には、魂ごと喰むように唇が重ねられていた。

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