木菟の血潮と兎の陋習

 時は流れ、季春。
「どうも、大久保サン」
 江戸に駐留する大久保の居宅に、客人が来た。居た、とするのがより正しい。欠伸を噛み殺しながら手を振っているその人物は男とも女とも付かない体を畳に横たえて、肩で息する大久保を面白そうに見つめ――観察している。
「迎えをやると、伝えたはずでしたが」
「そういうの嫌いなんだ、ぼく」
「とはいえ」
「それに、そろそろその態度も改めていただかないと」
「む……」
 武士とそれ以外の関係である。本来ならば許される行いではなかったが、それでも大久保は許した。息を整えつつ草履を脱ぐと、やっと身を起こしたそれへ正面から覆い被さるようにして腕を回す。
「おかえりなさい、大久保サン」
 抵抗は無い。むしろ、溶けるように委ねられる。愚かな衝動に応えた薄い体を強く抱き込めれば、山積する問題に思い悩んでいたはずの頭が安らぎを覚えた。かつて悩みの種であった者に癒やされるなど、人生とはわからないものだ。離れるべき時を逃した大久保は、苦し紛れに客の名を口にした。
子墨さん……」
「ああ、冷たい。冷えましたね」
「季節外れの雪らしいな。……薩摩では考えられん」
「郷里が恋しくなってもおかしくない。おや、雪華が」
 子墨は大久保の肩に付いていた雪を手で払うと、「人肌も恋しければ、ぼくが温めて差し上げましょうか」と囁いて彼の髪を撫でた。息を飲んだ大久保が、僅かな間を置いて喉を鳴らす。
「誘惑が、上手いものだな――」
 大久保の冷たい額が、子墨のそこに押し付けられる。だが、口付けを求めて突き出された子墨の唇に触れたのは、大久保の指先だった。男の生真面目さを表す眦が歪む。淡い色のそこを二度三度となぞった固い指が離れてゆくと、子墨はやはり面白そうに大久保を見つめ、微笑んだ。
「……あんたほど我慢強いひとってはじめてだ」
「褒め言葉として受け取っておこう」
 大久保は咳払いをすると、「用があったのだろう」と厳しい顔付きで子墨に向き直る。
「ええ、頼まれていたものが仕上がりましたので。ひとつは、こちら――」
 子墨は実際、感心していた。
 未だに一線を越えようとしないこの男は、斉彬が没したばかりの薩摩藩を纏め上げようと張り詰めすぎているようにも見える。そうでなくとも難しい顔をしている男だ。真の思惑こそ別にあったが、息抜きでもさせてやりたいとしているのはいつも本心からだった。
 だというのに――大久保利通は、決まって情欲を断ち切ってみせる。
「写真術には叶いませんが、絵には絵なりの、書には書なりの猫ぞあり……ってね」
 大久保の前に幾つかの絵画と書を広げながら、子墨は密やかに己の幸運を喜んだ。それは、久しく味わう純粋な喜びだった。薩摩藩の実質的な中心人物を籠絡せしめるのがこんなにも容易いとはと呆気に取られたのも、それでいて思い通りにならないことへ、いくら振り回しても壊れない玩具を見つけた童のようにはしゃいだことも、子墨にとっては既に懐かしさを覚えるほどだ。間部が情報を必要としなくなった今となっては大久保に取り入ったところでどうにもならないというのに、子墨は様々な理由を付けて彼との逢瀬を重ねた。
 ――本当に、面白い。
 この世に二人と存在しないであろう稀なる男が、膝を交えるほど近くに居る。経緯はどうあれ、子墨は自らが大久保に惹かれつつあるのを感じていたのだ。
「感謝する。篤姫様も気に入られよう」
 一通り作品を確かめ終えると、大久保は雰囲気を和らげて子墨に向き直る。眉間の皺は依然として深いままだが、高揚しているようにも見えた。
子墨さ――子墨。貴公の書画は、いつも見事だ」
 憧れていた子墨の、それも世に出回っていない作を目にしたのだ。当然のことかもしれなかった。
「どうも。もしも上手く運んだら、ぼくは大奥からもお声の掛かる者になってしまうかな」
「喜んでいるようには見えんな」
「権力が嫌いなんだ。公方様に頼まれようが、気が乗らなければ働かないね」
「……そう、か」
 子墨は何某か企図するような笑みを浮かべて彼の視線に応えながら、慣れた動きで大久保の煙草盆を用意する。葉を詰める間に火を起こしてやる。自然とそうするようになったのは、井伊に尽くすたかの姿を見てきたからなのか、子墨にはわからない。盆にも煙管にも薩摩風の蒔絵が施されているのを見るに、わざわざ郷里から持ってきたのだろう。そんなところからも男の人柄が伝わってくる。子墨が寛いだのを確認してからゆっくりと一服を味わった大久保は、やはりゆっくりと息を吐き切ってから口を開いた。
「自分の頼みを断らないのは、恩からか?」
「それもある。けれど、別の理由もある」
「なんだ」
「ふふ、聞きますか。今?」
 勿体振ろうとする子墨に対し、大久保は煙管を置いて顔を近付けた。
「今だ」
 丸い膝頭に手を添えてまで続きを促す姿は、大の男をまるで可愛らしい童と錯覚させる。子墨はそんな男の顎を指先で軽く支えると、お望み通りに続けてやった。
「あんたに興味がある」
 大久保が目を見開く。
「ぼくは、あんたのことを描いてみたい」
「それは――願ってもないことだが」
 そも、大久保が惚れ込んだことから結ばれた縁だ。偶然の招いた結果ではあるのだが――恩を売り付け関係を保たせているような現状に後ろ暗さを覚えないといえば嘘になる。故に、大久保にとっては、個人的な興味を向けているという子墨の告白は本当に願ってもないことだった。
「ところで」
 浮ついた気持ちを刺すように、子墨が言う。
「大久保サン、最後に女を抱いたのはいつです」
「な、……っな、なにを唐突に」
「どこでどう抱きましたか」
 咄嗟に距離を取った大久保の顎から離れた指は、しかし鞭のように大久保の後頭部へ回された。
 ほんの少し――あまりにもか弱い力で、強制的に前を向かされる。
「…………当分」
「はい」
 大久保が黙る。子墨が待つ。長い黒髪を掻き分けたしなやかな手が、彼の頸を愛撫する。
「……して、いない」
「思い出せないほど?」
「そうだ」
 嘘ではなかった。
 斉彬が没したことで薩摩藩は揺れ動いている。後を継いだ茂久はまだ若く、その父である久光が後見人として立っても尚、混乱は未だに収束の兆しを見せていない。だが、大久保にとっての大きな悩みはまた別にあった。篤姫から直々に託された責を果たすべく、そして共に託されたはずの西郷が久光と折り合い悪く、急速に立場を危うくしているのだ。そのため、大久保は女体に溺れている暇など無く――そしてなにより、なによりも。
「では、ご自分で欲を慰めたのはいつですか」
 この存在が、大久保から女への興味を奪っていた。勃たないわけではない。色欲も人並みにある。納まりが付かない夜には当然硬くなり、果てへ至るまで難儀した覚えもない。ただ、心に浮かべるものが、子墨に変わった。そこまで考えて、大久保はいつにも増して顔を顰めながら「それは――どうしても、言わねばならんのか」と言った。説明しろと言われてもこれ以上は一言も発したくないというような顔付きだ。だというのに、子墨から返ってきたのはあまりにも軽い言葉だった。
「いいや、どうしてもという程じゃありませんよ」
「なにっ?」
 瞬間、憤慨しかけた大久保を「けれども大久保サン」と宥め賺して弄する手が男の頬を包む。
 囁く声は甘い蜜だ。一舐めすれば堕落へ導かれる。大久保は断ち切ったばかりの欲が頭を擡げる気配に唾を飲み、視線だけを下げた。いつものように着崩されたそこは惜しげもなく真白い肌を曝している。平たい胸は弱々しく、男の目を釘付けにする。腕力に訴えればどうにでもできてしまう――邪な考えを誘う身体だ。そして次なる問いに、大久保はいよいよ閉口することになった。
「ぼくに抱かれる覚悟はお持ちですか」
「……今、何と?」
 やっとの事でそう返した大久保に対して、子墨は何ら変わらぬ調子で続ける。
「あんたを描くにはあんたを抱かなきゃ話にならない。本気で抱き抱かれるってのは、その人の過去現在を引っ括めて識り、未来を覗き視るということ」
「つまり」
「つまり、その人の腹を掻っ捌いて五臓六腑を暴き出すに等しい。大久保サンならわかるでしょう?」
 大久保はそこで、思い当たった。子墨に焦がれるようになった原因――真っ先に浮かんだのは、初期の作と云われる隠形鬼の絵。一目で憎しみが湧いた。なんでもないような茶屋の女。見れば見るほど感銘を覚えた。歌舞伎役者の艶めいた表情。羨望しかけた。それを、……それらを、抱いてきたのかと。
「…………何故、聞く」
「惚れているから、知りたくなった。ぼくが何者であれ抱けるのかを。それじゃあ足りませんか」
「どうだか。……おはんの心は幾つもあっと――おいを揶揄うちょる顔しっせ」
 血潮が煮え立つ。子墨は放埒な面を持ち、男も女も構わず侍らせ愉しむような者であるというのが世間からの評であった。大久保は今まで、くだらない噂だと気に留めずにいたのだ。だが、いよいよ抑えられなくなった怒りに任せ、大久保は子墨の肢体を組み伏せた。
「自分には――貴公に懸想される道理がない」
「必要ですか、そんなもの」
 細い手首を片手で以て束ねてしまえば、これ以上誤魔化されなどしないとばかりに握りしめる。
「わけもなく動く人間など居るまい。それと同じだ。理由を聞かせてもらわねば、納得できはしない」
 子墨は、ただにっこりと笑みを返して言う。
「余人にはわからぬ、どうにもならぬことがあるものです。あなたがぼくの書画に惚れたのもそうだ」
「……成る程な。しかし貴公は、誤解している」
 大久保の双眼が鋭く光った。
「覚悟するのは貴公だろう」
 抱くのは自分だ。
 双眼の光は、火であった。言外に訴える男の瞳に燃え盛る焔を見て取って、子墨は息を呑む。
 そして、湧き上がってくる可笑しさを堪えられなかったように「ははっ」と笑声を洩らした。
「子墨」
「ふ、は……ははっ、あはは」
「そんなに可笑しいか?」
「あなたがあんまり真剣だから、冗談ですと言えぬ雰囲気で。つい、ああ、すみません」
 子墨がそう言い終えたのと同時に、男の手から力が抜けていった。恐怖ではなく震える体の上からぎこちなく退いて、深く深い溜め息を吐き切り、大久保は苦々しく口を開く。
「冗談で済まされると、っ……まあよい。自分は無理にこの関係を進めようと思わん」
「ま、半分は本気でしたが」
 大久保は今度こそという見幕で立ち上がりかけ、思い直し、拗ねたように胡座をかいて、存在を主張しつつあった股座のものが萎びゆくのを待った。
「次はないぞ、子墨
「まあまあ怒らないで怒らないで。そうだ、こんなときは話を丸っと変えましょう」
 子墨はそんな大久保の腿を軽く叩くと、声を潜める。降り積もる雪が、焦りだけを上手く隠した。

「赤鬼が――井伊が暗殺されたというのは、真実ですか」

   ◇◆◇

 井伊直弼は生きている。
 須藤に裏を取らずとも、大久保利通まで届いた情報ならばきっと確かだ。子墨は得たばかりの情報を胸に、日本橋へある自らの拠点へと急いでいた。
 深傷を負いながら、辛くも逃げ果せたという。与り知らない何らかの事情で失敗に終わったとはいえ、傷の深さは相当なものの筈である。子墨には、井伊が回復することを闇雲に信じるしかなかった。
 しかし、これで倒幕派の狙いは果たされる。井伊は責任を追及される隙を作ってしまった。大老の座からは退くだろう。それは間違いない。平穏無事に済めば、彦根で蟄居となるだろう。済まなければ――子墨はそこで思考を止めた。
 仮にも情報屋として渡ってきた者としての勘が告げていたのだ。それ以上は考えるな、と。胸騒ぎが収まらないまま、心臓が痛む。
『おぬしは少し、たかに似ているな』
 ――今更になって。
 声にも出せず悔やむ。つい昨日掛けられたばかりのように思い出せる言葉が、古い刀傷のように子墨を苦しめていた。たかのことがすきだった。井伊のことがすきだった。相容れない立場になろうが、二度と会えなかろうが、京で過ごした束の間は子墨子墨として生きるための転換点だった。
 そして――間部。子墨は、彼のためならば水火も辞さない。地獄で沙汰を尋ね歩き、迷わず責め苦を共に負う。二世の契りを結べずとも、流転の中で彼を想い続けるつもりで過ごしてきた。それでも恋とは思えなかった。それでも――
「便りなど、寄越してくれないのはわかってる」
 生きているなら見つけよう。死んでいるなら、追ってやろう。
 子墨は迷わず、路地に入った。赤橙に染まりゆく江戸の、夜の気配の暗がりの方へと。

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