
逍遥する四本足
欲しいものを手に入れたときの喜びを知っている。
奪い取ったそれがただの虚しさに化けることまで。
じゃあ洗ってくれよ、という冗談を本気にした。
袖を捲りながら見つめる背中に張り付いた黒髪は既に濡れて、私の指を待っている。伸びたね。呟くようにそう言えば、ン、と鼻にかかった曖昧な返事。もう眠たいの。囁くようにそう聞けば、ンン……、と返される。甘えていたいらしい――人殺しが人殺しに対して?
恋人に対して、ならどこもおかしくないのにね。
「触るけど。ほんとにいいの?」
どうしてここまで来ておいて確認しちゃったんだろう。自分でも変に思ったそれを、ノブナガが喉を鳴らすように笑って肯定する。
「くく、……ははっ、いや、おう、やってくれ」
「文句は無しね」
洗剤を手のひらで軽く泡立ててから、頭皮を指の腹で揉み込んでゆく。痛んだ毛先を切ってあげたり気まぐれに指へ巻き付けて遊ぶことはあっても、こうしてじっくりと触れるなんてことは今までになかった。
髪際から後頭部へ。滑らかな曲線、柔らかい皮膚、頭蓋骨。ノブナガのものだ。このなかにあるものが私を愛してくれてるんだね。たったそれだけのことで不思議と愛おしさが湧き上がるあたり、私も単純なのだろう。
「気持ちいい?」と訊ねれば、「あ?」と聞き返される。
――聞いてなかったみたい。
「なんだよ」
「なんでもないよ」
慣れないことをさせられる気分などお構いなしでリラックスしている男からは、まだ、血の匂いが落ちない。
赤く染まる泡を洗い流し、私はもう一度洗剤を手に取る。泡立てて揉み込む。指の腹で擦り落とす。湯気と共に籠もる特有の香りは思考を妨げるほど強いようにも感じて、気を抜けば眩みそうにもなる。
「ね。こんなとこ、他の誰にも触らせないでね」
「…………おめェの他に頼めるやつが居るかよ」
「居たらこのまま絞めてるかもしれないし?」
「こえーなァ」
ノブナガが笑う。
浴室に反響する笑い声が私の慰めになる。
得難いものは三つあった。ぴかぴかの幸福、まっさらな平穏、そして自分自身。もう本当に欲しいのかどうかもわからなくなっていた――――だからよかった。
私の手で奇麗になった髪を一束取って、くちびるを重ねる。視界に入る蜘蛛の刺青から目を逸らす。
なにもかもが宝物に思えたあのときと変わらないものは、せいぜいあなたの笑顔くらいだろう。