
そしてあなたの心臓に棲む
目か、声か、顔か。
捧げても――奪われても困らないものを考えてみる。二十四時間稼働する機械のようにひたすらキーボードを叩いているこの指も、中身の腐り果てた卵のように悪を栄えさせるためにせっせと稼働するこの頭も、子供騙しのようにくだらない思想に溺れていこうとするこの心も、いつか奪われるのだろうか、はたして奪えるものだろうか、それとも壊されるのか。
それとも。
それとも私はとっくに海の底へ沈んでいて、そのことに気付いていないだけなのか。……自分を見つめようとするたびにぐちゃぐちゃになって、もうなにも、なにもわからない。
――――獅童正義の犬。
私が得た地位だった。
誹謗中傷のついでに囁かれる下世話な妄想は気の触れた風のように私に付いて回る。はたしてそのほとんどが事実なのだから、仕方の無いことではあったが。
だが…………しかし。有象無象の蠅たちにまで見下され続けるのには、堪え難いものがある。気付けば食い縛っていた奥歯がじんじんと痺れる。
犬ならば犬らしく奴等を噛んでやろうかとも思う。気の迷いだ。けれど悪くない。獅童が振る舞う甘い蜜を啜れるだけ啜ろうとする、能無しの、木偶の、馬鹿共が、泣いて許しを請うのが見たい。
「胤森」
ぴたりと動きを止めた私に訝しげな視線をくださるのは、御主人様だ。サングラスを外した生の双眸は、獅子のそれにも突き付けられた銃口にも見える。
「随分と余裕そうだが、書き上がったんだろうな」
飼い犬の利用価値を見定める瞳をしていた。
獅童正義の犬ならば、その程度に萎縮などしてはならない。高慢に「ええ、一応」と答えれば、眉間の皺が増えた。過去最高記録だ。機嫌が悪いらしい。
「残すところは、そうですね、清廉な獅童正義候補に相応しい、見事な演説となるよう――祈りを込めるくらいかと」
十字を切る。養護施設でもそうだったように、心はそこにない。
「いいから寄越せ。お前には無駄が多すぎる」
「冗談で笑う余裕くらい持ったらどうですか」
「そう言うお前は無駄口を叩く余裕まであるのか。随分と良いご身分のようだな」
「お陰様で」
台本のデータをコピーしたUSBメモリを投げ渡せば、事務的に出されていた珈琲へようやく口をつけられる――指の感覚が無い。痺れているのは歯だけじゃなかった。喉から顎、頭の後ろ側まで、自分のものではないように感じられる。
革張りのソファーには私の体温がすっかり移っていて、通りで喉が渇くはずだとカップの中身を一気に飲み干した。
今のいままで手を伸ばそうとすらしなかったのは、隙を見せたくないからだった。逆効果だったかもしれない。強く、賢く、利用価値のある犬であるため、明智吾郎のように特別な力も無い私に出来ることはあまりにも少なかった。
…………捨てられたくない。
私は犬だ。このおとこの犬だ。獅童正義の犬であることだけが、このひとの足元で得られるものだけが、私にとって唯一の――
「どうされました、獅童さん」
いつも以上に難しい顔をして、獅童が顔を上げる。そしてギリギリで嫌味にもなろうかという笑みを浮かべた私と目が合うと、彼は忌々しげに溜め息を吐いた。
「草案としては上出来といったところか」
「書き直しますか?」
「……いや、これでいいだろう」
「八つ当たりでしたか。フフフ。なにかあったとしたら、その、怪我の原因でしょうね」
獅童が拵えてきたばかりの傷を指す。都合の悪い足跡はいつか獅童正義の首を絞めるのかもしれない。上手に隠したつもりの酒の匂いがすべてを物語っている。
「お前には関係のないことだ」
――やっぱり。
「胤森」
「はい」
伸ばされた手に噛み付けない。
ずっと、歯を食い縛りながら、堪えている。
「来い」
「はい」
威圧の眼差しに首を垂れる。
笑い飛ばすのを堪えている。あなたの犬であり続けるために――獅童正義の犬はとても従順と評判だよ。
飼い主が脚を開けば、すぐに革靴の先へ口付けられる。媚びるんだ。許可が欲しいと見上げるんだ。世界でいちばん憐れなものみたいに振る舞うんだ。
そうするように躾けられた。
獅童正義の犬はすごく従順だから――「いいぞ」の一言で動くように躾けられたから。
内腿の逞しさにうっとりとしながら頬を擦り寄せ、擦り減らし、献げ奉る。その醜態を、こんな私を、他でもないあなたが嘲笑う。
愛されるはずがない。愛を求めたら捨てられる。飼われていよう。獅童正義の犬を続けよう。一生。死ぬまで。このままずっと飼われていよう。このままずっと、ここに居たい。
もう、進むべき道も、引き返す道も無い。
ここは暗い――――海の底に光は届かない。
さむくてさみしい。けれど、選んだのは私だった。私は私のすべてを抱き留め、決して離さずこの場所を選んだはずだから。信じている。ラストシーンは変わらない。何度も夢見てきたように、最後に彼が笑うのだ。そして、そして私は、きっと報われる。この世でいちばんいいところでシャンパーニュを高く掲げたあなたと、一瞬だけれど微笑みを交わして――
そうして、めでたしめでたしで終わる。
そう、信じている。