淑女の法

 ハナ協会の制服を翻して毅然と現れたそのひとを認め、グレゴールはすこし控えめに右腕を上げた。
 黒い手袋に隠された義手は忙しく行き交う誰の耳にも留まらない程度のノイズを立てて、彼の存在を彼女に知らせる。
 そして期待通りに立ち止まった女が耳に手を当てる仕草を見て、グレゴールはひどく懐かしくなった。昔からパメラは耳が良かった――事故がきっかけで特殊な補聴器を入れてからは、もっと。
「偶然……って感じでもないか、元気そうでよかった。もしかして君がブリーフィング担当か?」
 空回りするフリントホイールを何度か擦りながら、グレゴールはらしからぬ早口でそう言った。仕事の話を装ったなら“かつて”のように続けられるつもりで。
「……南部ツヴァイ協会の待機場所は此処ではないのですが、必要であれば案内いたしましょうか」
 ――悪手だった。
 パメラは斜に構えようとするグレゴールを真っ直ぐに見つめて、至極当然、といった態度でそう言った。長い黒髪がさらさらと風に流され、陽に透けたところが青みがかる。見飽きないな、と思ったものだ。
「もし?」
 郷愁にも近い。そんな気持ちに捕まっていたグレゴールの意識を、パメラの声が揺り起こす。
「必要な……あるかも、いや。いや違う、ちょっと待ってくれ」
「ええ、待ちます」
「……あー、その、鞄を持とうか?」
「有り難いお話ですが、これは仕事道具ですので」
「そうだった。……そうだよな〜、次元鞄は預けられないよ」
「…………」
「……その〜、ライター持ってる人って居るかな?」
「ここに」
 鞄から彫刻の施されたオイルライターを取り出したパメラからそれを受け取って、グレゴールはいよいよ手立てを失った。
 うるさいくらいの沈黙の中で、パメラは静かに咲いている。彼女の背後では慌ただしく人が行き交っているし、数分毎に拡声器越しの号令が掛かっているというのに、まるで、いつのまにかガラスで造られた小部屋へ通されていたかのように。
 サングラスに遮られた男の目線はパメラの頭から爪先まで、まるでなにかを確認するように行き来して、それからやっと、彼女の瞳を見つめるに至る。
 ブルーグレーのなかで落ち着きなく藍青色のコートの襟を正して、グレゴールはパメラを引き留めていることを詫びた。
「謝る必要がどこに?」
 いくらでもある。
 両手に余るほど。身動きもできないほど。
 グレゴールはもうパメラの目を見ていられなかった。
 ほとんど無意識に呼び止めて、勝手に懐かしんだせいで下手を打って、どうしようもないじゃないか。ハナ教会の真っ白い制服に身を包んであること以外に、グレゴールにはパメラの変化はわからなかった。時の止まったような姿の彼女が微笑んで――
「よく考えて。あなたが謝る必要なんて、どこにもないでしょう――――グレゴール」
 二人の部屋から彼女が去った日と、まったく同じことを言う。
「…………パメラ
「懐かしんでいるのがあなただけだと思わないで」
「だって、……君は」
 グレゴールはそこで言葉を詰まらせて、パメラの手元を見た。その次元鞄のなかに、思い出の写真はまだ入っているんだろうか。パメラが持って行ってしまった二人の幸福なだけの記憶を、一枚に閉じ込めた一瞬のことを永遠のように思いながら、ずっと一人で過ごしてきた。
 グレゴールはもう一度、今度は祈るようにして、彼女の名を結ぶ。
パメラ、その……」
「……制服が似合っていますね、グレゴール」
「…………君こそ」
 時が動き出すようだった。

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