
狂想曲『笑う女』
酷く冷える夜のことだ。ジャーガル――今はシナビと呼んでやるべきか――の手で忘却の次元界から脱することが叶った詩歌の王・ミリルは、川の中、驚くほど薄い布切れ一枚で佇むその女に目を奪われた。楽器も持たず、歌も囀らない濡れた小鳥。しかし、なぜか、女の鼓動は優れた奏者の手がリズムを刻んでいるドラムのように耳へ馴染んだ。ミリルはすぐに考えた。他の神の寵愛によるものだろうか、と。違う。そんな気配は感じられない。では、他の神へ捧げられた供物かなにかなのだろうか。それも違う。そんな悲哀も感じられない。
だとしたら――――なんということだろう。
この娘が誰のことも信仰していないのだとしたら、いや、していたとしてもだ。その喉から発せられる歌の祈りを一身に受ければ、物乞いが纏う襤褸よりも貶められた尊厳も慰められるかもしれない。ミリルはもう、なにも聴こえないことに我慢ならなかったのだ。
「お嬢さん」
ミリルがバードに与え、そして忘れられた曲のひとつを幻術のフィドルが奏でる。ただの吟遊詩人のように肩まである黒髪を靡かせた彼は女へ声を掛け、数拍待ち、諦めずもう一度声を掛けた。
「美しいお嬢さん、こちらを向いてくれないか」
女の心音は、微塵も揺るがない。
「……私はそこまで落ちたのか?」
女は笑っていた。神のことなど気にもせず。
チオンター川に膝まで浸り、分厚い雲が埋め尽くす夜空を見上げてひとり、女は笑っていた。張り詰めた弦の今際の際の叫びのように甲高く。気が触れていた。
彼女の心はミリルが及ぶ領域に存在しない。無駄だ。気付いたミリルは踵を返そうとしたが、……止めた。そして声を掛ける代わりに、祝福の息吹を女へ吹き掛けた。次の瞬間、女は何事かを思い付いたように腕を広げ、くるくると回って――視線が合い、水面へ倒れる。
「だが君の心臓は欲しい」
川底で目を見開いた女の鼓動は速く速く、速く、依然として魂に馴染む。ミリルは冷たい水の中に腕を伸ばして女を抱き上げると、美しい顔で静かに微笑んだ。
「君が欲しい」
その傲慢が聞こえずとも、神は歌うように告げる。