ちゅっとして桃源郷

「いったいどうしたんです」
 と、子墨は言った。
 それは当然の疑問だったのだが、問うにはあまりにも遅すぎた。
 車窓の景色はビルディングの群れから住宅街、工場の立ち並ぶ区間を過ぎて、田畑とトンネルの暗闇が交互に訪れるようになったところだった。なにもえんがわ押し寿司を分けている最中に言うことではなかったかもしれない。と、口にした本人が微妙な顔をして横に座る男を見つめる。
 男は――間部詮勝は、子墨以上に微妙な顔をしながら寿司を抓んだ。
 事の起こりは、一週間前になる。
 その日は休日だというのに、間部はいつもの青いスーツを着ていつものようにきっちりとネクタイを締めて、いつもの時間に家を出た。子墨はいつもならば車内で聞いているはずのエンジン音がかかるのをぼんやりと聞きながら、そういうこともあるか、で済ませて二人分の食器を洗うことにした。
 間部は自身の行動をいちいち子墨に説明したりしなかったし、子墨ももう間部の行動にいちいち理由を尋ねるような年頃ではなかった。
 いつまでもなにがなんでも付いて回ろうとするこどもでは居られないし、などと自身に言い聞かせる。言い聞かせなければならない程度には、子墨は間部に甘えていた。
 そして、子墨がそんな幼さを残したまま成長することになった原因の男は、帰宅してすぐに数枚の紙を机に置いた――妙な厚みと非日常の存在感を放っていたそれがつまり、いま二人が並んで座っている新幹線の乗車券というやつだった。
 間部はせっかくの遠出だというのに眉間へ皺を寄せたまま、子墨の問いに「おかしいか」と聞き返す。
 おかしいかおかしくないかで言うなら、おかしいに決まっている。だが、子墨は首を横に振った。口の中でえんがわが溶けていた。
「ぼく、温泉なんてひさしぶり」
「ああ」
「旅館のごはんが入らなくなっちゃうし、これあとは間部サンが食べてね」
「ああ」
「あーたのしみ。間部サンは?」
「ああ」
「……あのさぁ、間部サン」
「なんだ」
 子墨の声に返す間部の声は淡々としているようで、存外に甘い。井伊ですらわからないでろう微かな熱も持ったその声音で、その低音で耳元にいじわるを囁いてくれるのが待ちきれなかった。子墨は間部の肩にそっと頭を乗せる。引き剝がされるかとも思ったけれど、間部はじっとして動かない。
「旅館でのえっちって、どれくらい声出してもいいの」
「…………」
 間部は深く重い溜め息を吐き、しかし、子墨のことはそのままにしておいた。

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