どうしてこんな酷いこと

「俺もなぁ、他人のこと言える身分やないねん。どうにも気が多くて、ごっつ美人なネーチャンが居おればつい目で追って……これはもう反射やけど。まあとにかく、浮気者〜って殴られることなんかしょっちゅうや。ちーとも効かんけど。でもなあ、ヒトのもんに手ェ出すのはアカンよ。なあ、聞いとる?」
 ――救急車。警察。いや、それよりも。
「やりすぎてもうたかなぁ……ま、ええか。服伸びてへんか。掴まれとったとこも消毒しときたいし……怖かったろ、とりあえず俺が泊まっとるホテル行こか。すぐ近くやねん。大丈夫大丈夫、こいつみたいに変なことせーへんよ」
 私の頭を撫でる、この人を、私は知らない。
 背が、……高い。横にも大きい。平均よりは逞しかった男を殴り倒したばかりの、見たことがないほど太い腕が私の体をふんわりと抱き締める。どくん、どくんと伝わってくる鼓動だけが、同じ人間である証明かのように感じられた。まるで子供をあやすときのような声音と、肩の辺りをぽんぽんと優しく叩く手のひら。目深に被った帽子の作る影の向こうに見える瞳は笑っているはずなのに、とても、――――とてもじゃないけれど、安心できるはずがない。
「ごめんなあ、すぐに助けられんかって。プロっちゅーのは面倒でなあ、パンピー殴るのもホントはアカンねん。せやからせめて人目に付かんとこに行くのを待って――どないした?」
「も、もう、大丈夫です、から。は、離して……ください」
「ンな他人行儀な。知らん仲やないやろ」
「知らない……、し、知らない。誰なんですか、あなた……っ」
「照れんでもええって。ほら、今なら誰も」
「たすけ、助けて……っ、だれかっ」
「……おもろないジョークやなぁ」
 先程までナンパとは比べ物にならないほどの身の危険を感じて、離れようと身を捩る。意味が無い。足をばたつかせる。意味が無い。体に噛み付いてみる。意味が無い。全身で暴れてみる。持ち上げられて、ぎゅう、と抱き締め直される。
 視線が高くなったことで目の前にやってきた男の顔は、それでもやはり見覚えがなかった。友人どころか、知り合いですらない。挨拶をする程度の近所の人間でもなければ――「柘榴ちゃん」どうして、私の名前を知っているんだろう。
 どうして、そんな。
 私が悪いみたいな顔で、私を見るの。
「こうやってこそこそ付き合うのも、近くに居んのに他人のフリするのも、すれ違っても無視するのもな、ぜーんぶ俺のためを思ってのことやってわかってる。けど、……こうして」
 唇が触れた。
 そこまでが、私の理性が把握した事実だった。
 分厚いもので抉じ開けられた口の中を、男の舌がねっとりと舐め回す。吸って、噛んで、また舐めて、……そんなこと、ありえないのに。ありえないはずなのに、目の前にある男の喉がごくりと鳴って、視界が暗くなりかける。
「こーんな深い恋人同士のチューまでしてんのに、ド忘れしました〜なんて。ホンマにおもろないわ」
 ありえないことが、起きていることが、ありえなくて。半ば放心状態となった私を地面に下ろした男の方が泣きそうな顔をしていることに、怒りを覚える余裕すら。
柘榴ちゃん、……俺、もう我慢できひんよ、はよ交際宣言して、俺のもんなんやーって知らせとかんと、また悪い虫が近付いてまうわ。今日まではなんとか耐えとったけど……今度こそ、殺すかもしれへんし」
 男が、なにか言っている。聞きたくない。私じゃない。私に言ってる、はずがない。だって、あなたのことなんて知らない。あなたと私は、出逢ってすらない。
柘榴ちゃん。……柘榴ちゃんの匂い、ええ匂いやね。……俺の大好きな匂い」
 体を無理矢理に縮こめて私の首元へ鼻を擦り寄せるこの男に、私がいったい何をしたというのだろう。ねえ、謝るから。……謝らせて、なんでもするから、許してください、だから、どうか。
 誰か。

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