
月に叢雲
飯を食う。刀を振るう。床に就く。また、飯を食う。
人の真似事のようだ。
そのように思いながら、間部詮勝は箸を置いた。腹が満ち足りた感覚は無いが、これ以上なにかを口にする気分にはなれそうにもなかった。冷めた鍋の中にはまだ豆腐が幾つか残っている。幼少の砌は貧しく、厳しく、飽食など夢のまた夢であったはずだというのに。
『江戸の豆腐は固いな』
間部はふと、己の主と決めた男がそう呟いていたことを思い出した。あの方が言うならば、彦根の豆腐は柔らかいのだろう。いや、京のものを言ったのだろうか――あれがただ郷里を懐かしんでいるのではなく、間諜であり愛人でもあった芸者、村山たかを恋しんでいたのだと察したのは、今となって漸くのことだ。
江戸は今日も忙しない。武家屋敷の連なる麹町が近いともなれば尚更だった。あさりなりどじょうなりの鍋を持って動き回る店の者、入れ替わり立ち替わりする客。それぞれがそれぞれの都合を急ぐなかで皆一様に妙に身形の良い老人を怪しんでいたが、間部は素知らぬ顔で残りの酒を呷ると店を出た。
「間部サン」
通りに出た途端、高くも低くもなく、けれどどこか甘えた声がひっそりと掛けられる。
「子墨か」
そちらを見ることなく返した間部はそのまま歩き出すと、先の声の持ち主――子墨が付いて動き出した気配を確かめて「首尾は」と、短く問う。
「危惧した通り、久坂を中心に人が集まってます」
「薩摩は」
「暫く温順にするしかないでしょう。が、件の者が」
「隠し刀だな」
「姫君が気に入られたようで。どう転ぶかわかりませんが、様子は探っておこうかと」
京橋から日本橋に差し掛かるところで、不意に間部が立ち止まった。子墨は対岸にある歌舞伎座を眺める風を装いながら彼の真横まで来ると、気遣わしげな視線を間部に寄越す。
墨の匂いがする。名は体を表すという言葉の通り、子墨はいつも墨の香りを漂わせている。
間部は子墨を横目で見ると、恥じらいもなく着崩された前身頃から視線を外して溜め息を吐いた。
「なんです」
墨汁を穂先に含んだ筆のような毛束を風に靡かせる子墨が、その一束以外を短く切り落としている頭を掻きながら「なにか他に気に掛かることでも?」とぶっきらぼうに呟く。
「……いや、構わぬ。」
「構わない、ね。……井伊サマの身辺も探っておきましょうか」
子墨がその名を出すのは、井伊直弼による弾圧が始まって以来のことだった。
自由を好んで、権力を嫌う。決して言葉にはしなかったが、子墨が大獄へ反対しているのは間部も勘付いていた。同様に、懐いていたたかを斬り捨てたのが間部だということに子墨も気付いている。彼女のかんざしが子墨によって井伊の屋敷に届けられた事実を間部は知らなかったが、知ったとして驚きはない――むしろ、当然だと思ったかもしれない。
「あんたが麹町を彷徨うよりは確実だと思いますよ」
そう続けた子墨の声からは先までの馴れ馴れしさなど消え失せ、間部を非難しているようにも聞こえた。薄墨に似た、淡い灰黒色の双眼が物事を探るときの眼を向けている。
「もうよい」
だが、間部は平然とした態度を崩さずに答えた。
「私が罷免された今、貴様の仕事も終わったようなものだ」
「……本気で仰ってるんですか」
たかが死んだと聞いても見せなかった怒りを滲ませる声に、間部はしかし淡々と返す。
「無論だ」
「無論。無論だって、そんな、冗談じゃない」
「……貴様も、聞き分けが悪くなったものだ」
昔から、一を聞いて十を知るような者だった。
そう。
昔から、間部は子墨の利発さを半ば疎んじていた。
「昔とは違う。……ぼくも、あなたも。違いますか?」
――――出逢いは、京の遊郭になる。
◇◆◇
「そうかそうか、おぬしはすみと申すのか」
「はい。今はたかサマの御用絵師をしております」
「まあ、この子ったら」
村山たかの膝に座り、井伊直弼に手を取られてにこにこと笑う。それが、足利に始まり織田に仕え、探幽が家康に目見えたことで今に至るまでの栄誉に与る江戸幕府の御用絵師――木挽町狩野家当主雅信の娘、やがて子墨と名乗る童女だった。
間部は当然、狩野の者を知っていた。老中として晩年の家斉に重用されていた自分に接触してきたのが、この娘の祖父――西の丸御殿にも頻繁に出入りしていた狩野養信だったと間部は記憶している。栄華を極め奢侈を好んだ家斉は、時に間部や堀田よりも養信に信を置くほど養信へ傾倒した。家斉が亡くなり、自身も老中の座を追われてからは当然のように繋がりも絶たれたが、狩野派は依然として奥絵師の格を保ったまま将軍家の寵愛を受けている。威光を求めるあまり狩野派の出身であるというだけで金子を惜しまずに召し抱える大名も少なくない。
――だが。
現当主の子とはいえ、娘となるとまた話が違ってくるのではないか。間部は、気付けばまるで二人の子のように振る舞っているすみを睨むように見つめると、大いに訝しんだ。その剣呑さを諌めるかの如く、井伊がすみに問う。
「おぬしひとりでここまで参ったというのは本当か」
まだ髪結いも済ませていない歳だ。せめて供の一人くらい付けてやるべきではないかという井伊の疑問は尤もだった。だが、すみは首を傾げて「すみは何処にでもひとりで向かいます」と言い返し、続けてこう言う。
「ですが、起き抜けに急ぎ高名な太夫サマを屏風画にせよと命じられて駕籠に乗せられたものですから、それには困りました。すみの大事な手鞠を捨てられていないか心配です」
「……ほう」
「ふっ――ふふ、失礼致しました。ね、直弼様。可愛らしい娘にございましょう?」
「ああ、おぬしの申した通りだな。だがすみよ、その任は終わったのであろう」
「そうです。すみは重ね重ね困っています」
「申してみよ」
「いつもなら文を出せば迎えを寄越されるはずですのに、一向に来ないものですから。これが困らずにいられましょうか。たかサマが居なければすみは京で路頭に迷うところでした」
井伊とたかが同時に笑う。弁の立つ童女を囲んで、久方振りとなる策謀を抜きにした会話を楽しんでいた。
「ではそろそろ、たかの御用絵師の腕をわしがこの目で確かめてみようか。すみ、見せてくれるか?」
「勿論でございます」
「すみ、あの絵などどうかしら。ほら――」
すみの作だという絵画を広げて二人で褒めたてる姿など間部にしてみれば面白くもなんともない光景であったが、盗み見るようにして確認したその絵画が養信へ描かせた婚礼調度品にも劣らぬ出来であったものだから、益々口を出せなくなった。
平穏――そう断言しても構わない。そんな日々が、暫く続いた。
井伊直弼は村山たかに甘く、村山たかはすみに甘かったので、結果的に井伊もすみを甘やかした。才知に溢れるその童女は両人の想いへ応えるように子供らしく振る舞い続けた。情こそ正室や側室に向けるそれより深いだろうが、井伊とたかの間に子は居ない。それが原因だろう。と、間部は考える。間部は井伊の間諜として芸者を続けるたかに相通ずるものを感じてこそいるが、しかし、たかは悲しいほどに女でしかないとも思っていた。想うあまりに、ということもある。これで、万が一にも背信が芽生えぬようになればいい――「けれど、外で遊ばせてあげられなくて」が。その言葉を受けただけで控えていた間部へ「……頼まれてくれるか」と言い付けるとは、間部は予想していなかった。傍観していた対岸の火が飛んでくるとは思わず目を見開いた彼の顔を、すみがたかの膝の上に座ったまま覗き込むように身を乗り出した。灰黒色の大きな瞳に映る己の容貌が困惑しているのは明らかだったが、助け舟を期待できる筈も無い――要は、二人とも無粋な隠密をそろそろ厄介払いしたかったのである。
しかし、井伊から直々に頼まれてしまっては何も言えないのが間部だった。
「御意に」
柔らかな膝から降ろされたすみが、深々と頭を下げた男を見つめる。
「すみの筆のよう」
白いものが交じる間部の頭に向かって伸びようとする彼女の手を慌てて取ったたかの笑い声を聞いて何事かと襖を開いたきちまでもがその光景に破顔したのは、言うまでもない。
「間部サマ」
呼ばれる度に、立ち止まる。結んだ手を振り解かれてしまわないように繋ぎ直すと、間部は「なんだ」と返した。反対側の手には、飴売りから買ったばかりの――すみが一口舐めただけの飴がある
「あれはなんでしょう」
「あれは――凧だ」
間部の言葉を繰り返したすみが、再び凧を熱心に見ようとする。江戸から離れた京とはいえ、見るもの聞くものなにもかもに興味を引かれる様子は、狩野雅信がどのようにすみを育てているのか窺い知れた。
「大きな鳥かと」
「鳥とは違う。竹を組んで絵柄を付けた紙を張り、風に乗せておる。辿れば糸を持つ者が居よう」
「絵。……綺麗な絵」
その模様は、間部から見れば稚拙なものだった。だというのに、すみは目を輝かせて凧を見ている。
「すみもあのように描いてみたい」
「……描けばよいのではないか」
「言われたものしか描いてはいけないの、すみは」
即ち、言われたものは描けるということだ。親からは女に生まれたことを悔やまれながら育てられ、兄弟からはその才を疎まれて日々を過ごす彼女は、例えば飴売りを描いたことはあっても、飴を口にしたことなどなかった。水飴とは違うものだと説明してやった間部に『みずあめ?』と尋ねたすみの無垢さに僅かながらも同情心が湧いたのは、間部自身が過去に置かれていた境遇のせいもあったのだろう。
「すみ」
思えば、馬鹿なことをしたと悔やむ出来事のひとつなのかもしれない。だがその時、間部は確かに、そうしてやるべきだと思っていた。
「今後、私の気が向けばだが……ひとつ、お前に遊びを教えてやろう」
「間部サマが?」
「ああ。碁くらい覚えて損はあるまい」
「約束?」
「……あまり期待するな」
「それでも嬉しい。間部サマ、間部サマ、すみはね、すみはとっても嬉しいんです」
そして――こころからの笑顔を向けるすみの柔らかな手を、間部は無意識に強く掴んだのだ。
◇◆◇
それから、五年が経った。たかは井伊の命で港崎に拠点を移し、狩野の家からはひとりの子女の名が消された。
「ぼくは狩野を捨て、墨は自由を得て、徒人として子墨になりました。間部サン、あんたの手でね」
男とも女とも付かない顔を間部から隠すように伏せて、子墨は続ける。
「ぼくがあるのはあんたのおかげだ。その恩を――」
「お前の髪を切ったとき」
「これで義理立てなどする必要も無くなったな、でしたね。忘れてなどいませんよ」
「…………」
数年前、井伊と対立しかけた狩野家の力を削ごうとした間部は、まず雅信らが蔵に仕舞い込んだという〝特別な墨〟を解き放った。偽装を目的に童女の髪を切り落とし、須藤の元へ送った。須藤は間諜の心得があった。流言飛語を聞き分けながら人の心に入り込む術を学ばせたのだ。
しかしそれは、すべて井伊のためだ。間部が井伊に罷免され――死に場所を求めるのみとなった今、間部は子墨を情報屋として飼い続けるつもりはなかった。そも、ここまで関係を続けるとも思っていなかったのだ。だというのに、自由とは程遠いであろう立場から逃げ出すこともせず、今も子墨は間部の前に立っている。
「そうだ……なにもかも、ぼくの勝手だ。けれど」
子墨の声は微かに震えていた。
「けれど、わかりませんか。……ぼくがあなたに身を捧げてきたのは、恩義に報いるためじゃないんだ」
その理由に、その言葉に。思い当たることなどなく、間部は訝って眉間に皺を寄せる。
「間部サン」
子墨はゆっくりと顔を上げて、間部の双眼をしかと捉えた。
「あんたがぼくを置いて死んだら――――」
地獄まで追いかけてやる。
唇だけがそう告げていた。