
さばくのまぼろし
記憶喪失の女を拾った。拾ったというよりも、やっと会えたと言うべきなのか。オレの前に現れた女が偶々記憶喪失で、偶々行き倒れかけていて、偶々――十年以上前に行方不明になったはずの姉である確率はきっと天文学的な数値であるに違いない。
「ラシード」
だからこれは、奇跡だ。
ザクロがオレの名を確かめるように呼ぶ。柔らかく甘い声はあの頃に焦がれたままの優しさで、初めて、……はじめてオレに、向けられた。震えそうな唇を噛み締めてから「なんだい」と他人事みたいに答えたら、また「ラシード」と呼ばれるものだから、堪らなくなって腕を伸ばした。簡単に捕まってくれる体は柔らかくて、あたたかくて、これさえあればどんな夜も平気で過ごせるはずだと思った。
「わ、……動けない」
「動けなくしてるんだ」
「どうして?」
「どうしてだろう」
人の記憶は曖昧なくせに、意思に反して次々と思い出を消していく。声も、顔も、他の兄弟と同じように繋いでみたかっただけのオレの手を忌々しげに払い退けた指の冷たさも。朧げだったすべてが鮮明に頭の中で蘇る。都合良く彼女の中から失われた記憶は、あまりにもオレに不都合な真実ばかりだった。
ああ、どうか。どうかザクロが過去を思い出しませんように。このままオレだけが頼りなまま、オレに優しい、オレだけの姉さんで居てくれますように。目を閉じてから開くまで腕の中に居てくれる約束を交わしたかった。そうしたら、オレはずっと目を開けないよ。
「おやすみ、ザクロ」
『さよなら、ラシード』
――――ああ、これは夢だ。
夢の中だ。いつものように、ザクロは赤い砂地の上で素足を焼かれながら太陽の光を乱反射して微笑んでいる。靡く髪。優しい微笑み。誰よりも美しい人。届かない手。縮まらない距離。叫べない喉。オレを置き去りにして駆けていく後ろ姿は少女のように見えた。風は、近く訪れる現実に向かって吹いている。
「…………ねえさん、どうして?」
どうしてオレだけは愛してくれないの。
教えてほしいのに、手を繋ぎたいだけなのに、尋ねることすら許してくれなかった。この風の行き着く先で、あなたはオレを待っていてはくれないだろう。