
蛇の道も花の都へ続こうぞ
翠蓮楼に緊張が走る。
幸いにして、客が気付いている様子はなかった。
僅かな変化を見逃すほど阿呆ではないことに安堵して、気付かなければよかったなと後悔もした原因は、連れの男――名を、劉家龍。この店のオーナーであり、中華マフィア『蛇華』の日本支部総帥。そして、私のビジネスパートナーだった。彼の視線が店内を一巡し、私に戻る。
「私の格好、場違いっぽくないですかぁ?」
「…………問題はありません」
劉の口角だけが上がる。無いことにしてくれたらしい。この男にはそれだけの権利と自由があるから。私は自分のシャツの裾を引っ張り刻まれた皺をさりげなく誤魔化して、ジーンズに付いていた泥汚れは見なかったことにしながら、愛想によって作られた笑みを返す。そのぎこちなさをも、劉はそっと見逃した。
そうして出来る間に、ウエイターがするりと入り込む。極めて自然に、何も感じさせない、教育の行き届いた所作だった。けれど、ほんの僅かに手が震えていた。劉は彼に睨みを利かせ、『普通』の席へ案内させる。このウエイターと次に会う機会があるのかどうか――無に等しい同情が涌いて出て、すぐに消え去っていく。
此処は、劉家龍のテリトリーだ。
「町中華なら炒飯に餃子とか言ってるところですけど」
「そう言われると思って、もう、伝えてあります」
既に勝ち誇っているような劉の視線が私の胸元へ下がり、すぐに戻る。慣れたものだ。波立つこともない感情を他人事のように思いながら、私は劉から視線を外す。これは、いつも彼によく効いた。
「はは、ですねぇ。実はもうぺこぺこで」
「ぺこぺこ?」
「ああ、あー、とてもお腹が空いてるってことですよ、劉さん」
微かな苛立ちと共に片眉を上げた劉へ適当な答えを返して、溜め息の代わりに水を飲む。
翠蓮楼で食事を、と、提案したのは私だった。それから今まで劉は電話をかけてはいなかったし、彼が連れていた部下にもそんな素振りはなかった――つまり、今日は最初から胃を同じもので満たすつもりでいたのだろう。
ということは、だ。
「どうぞ、緊張せず楽しんでください、胤森さん」
緩く頷く――そうしようと思ったところだった。
後のことは後の私に任せてしまえばいい。まんまと乗せられた手のひらの感触を無責任に楽しむのも、悪くない。
「ここは良い店でしょう」
「店の良し悪しはよくわかりませんが、……そうですね。例えばさっきの彼なんて、私の部下に欲しいくらいよくできてる」
「あれが?」
「そう、あれが。……顔も好みです」
彩りも香りも見事な料理が盛られた皿を並べていく姿は、見ていて気持ちが良いものだった。見つめていると、無事に再会が叶ったウエイターの口が引き攣る。今度こそ最後の機会だろう。
――劉が殺気を向けていた。
「まだ、俺との取引中だ」
「……意外ですよ、そんなに必死になるなんて。高が知れてる老いぼれの情報がそんなに重要なのか、それとも…………」
視線が交わる。のたうちまわる。
骨髄に徹するこれは、不純物だらけの好意に違いなかった。ただ、他に方法を知らないのだ。自分を嫌うように愛してみたい。それは、傷付けるため痛めつけたいがために、慎重に触れなければならないということ。空の器を満たすだけなら誰でも構わないのに、どうしてか私たちはお互いを欲してしまった。
――誰でもよければ、あなたなんて選ばなかった。そうでしょう?
「劉さん」
同じものを同じだけ口にする。水を飲むタイミングまで同じになる。視線が絡む。離れない。壊してやりたいと伝わってくる。のたうちまわる。頭の中でのたうちまわる。可笑しいくらい同じことを考えているのがわかった。違えている可能性なんて考えられなかった。だって、有り得ない!
あなたは蛇。私もだった。交われても混ざらない、だから結ばれない、ならば奪いあうしかないのだろうか。満たされるのはどちらかだけだ。そんな相手を、選んでしまった。
「それとも、もう……こんな探り合い、やめちゃいましょうか」
もう。くいころしあうしか、ない。