
そごみぞ
いつもの長屋から、いつもと違う音が聴こえる。
足を止めたのは必然だった。最後に長屋へ邪魔したときには三味線など置かれていなかったはずだと思いながら、桂は恐る恐る戸を開く。先客が居れば気付かれぬうちに立ち去ろう――誰も居なければどうするつもりなのかまで考えることはできなかった。そのまま静かに歩を進めれば、浪人がひとり弦を弾いている背中が見える。爪弾かれるのは、聞き慣れたそれとはかけ離れて拙い音色だ。と、そこで縁側のその人が手を止めて振り向く。
「……来たのか。少し待て、茶でも淹れよう」
「いやいやいや、そのままで構わないよ」
「ああ、お前には酒か。なら確か――」
「いいからいいから、私のことは気にしないでくれ。それよりほら、続けないのかい?」
桂が三味線を指させば、隠し刀は少しの沈黙を置いて「そうする」と返す。それから、自身の隣を指先でとんとんと叩いた。座るなら此処に座れということらしい。
「お前は欲の無いやつだ、桂」
軽く笑われ、いったい誰と比べているのかと思いながら、桂は隠し刀の横へ腰掛けた。欲ならば充分すぎるほどあるし、今こうしているのがその何よりの証拠だというのに。邪魔にならないよう頃合いを見計らって「それはいったいどうしたんだい」と聞けば、懇意の芸者からお古を譲り受けたものの、持て余しかけていたところに横浜で交わした言を思い出して高杉を頼ったのだと云う。
成る程、あの上機嫌はそういうことか。過日の意味深長な笑みへ含まれたものを理解して、桂は自らの顎を擦る。この浪人へ好意を抱いているのが自分だけではないことは重々承知していたつもりだったが、こうもあっさりと先を行かれるとは。
尤も、高杉の思惑――下心を少しも察していないところは彼にとっても計算外かもしれない。だが、やはり、見せつけられると妬けてしまう。今はその時ではない。相応しいのは自分ではない。そう言い聞かせて諦めても構わないはずだった恋心の種火は焚き付けられ、火傷しそうなほどに桂の胸を熱くさせた。
――君ともあろう者が悪手だったな、高杉君。
思わず漏れ出た桂の苦笑に浪人は気付かない。
「あらゆる武器と流派を使いこなす君のことだ、きっとすぐに上手くなってしまうね」
「だといいな」
「ふ、私の見立てを信じたまえ」
「だが……お前には、もっと上達してから聴かせるつもりだった」
「え?」
「音に合わせて唄えるようになってからな。まあ来てしまったものは仕方のないことだが、これはこれとして楽しめているのならむしろ良かったかもしれない」
桂は耳を疑った。僻耳で“あるべき”なほど都合が良く、俄には信じ難いことを言い放った者があまりにも平然としているものだから、余計に。どくどくと脈打つ心臓と火照った頬を冷ますことも忘れ、桂は前のめりに隠し刀を見つめた。その不躾な視線へ手を止めてまで返された微笑みは柔らかく、優しい。
舞い上がる。
止められないと気付いた時には、もう体が動いていた。
「どうした、かつ――――」
重ねられた唇を控えめに吸って、男は離れる。
浪人の見開かれた目が、赤みを帯びた顔を見た。後悔と高揚と混乱が綯い交ぜになり、徐々に血の気が引いていく桂の顔を。
「……驚いた。随分と……いきなりだな」
首を傾げる浪人は隙だらけで、もう一度くらいなら容易く唇を奪えそうにも思えた。しかし桂は頭を振って、勢いよく縁甲板へ額を付ける。酷く酔った宴の後でもこんな真似をしたことはない。それほどのことをしたという焦りがあった。
「す、すまない。君に気があることを知っていてそういうことを言っているのだと――浮かれてしまった。君も私のことを好いてくれているのだと、いや、違う、本当にすまない、この通りだ!」
「待て。頭を上げろ」
「けれど私は」
「頼むから。お前のそんな姿を見たくはないんだ……ほら、起きろ、しっかりしろ」
浪人は三味線を側に置くと強情な桂の肩を掴んで上へ上へと押し上げてやり、ようやく上向いた彼の額に浮かぶ汗を指先で拭ってそのまま戦慄く男の手に自身のそれを重ねた。重ねて動揺する桂には知る由もないことではあるが、隠し刀にとってそれは片割れへよくしてやっていたおまじないのようなものである。だが――――
(ああ……私は、君が好きだ。諦めたくない、どうしようもなく君が欲しい。他の誰かを蹴落としてでも、この手を私だけのものにしたいよ)
それによって桂が決意を新たにしたのもまた、知る由もないことだった。