
そっとやさしく傷つけて
なにかしていたかったが、なにもすることがなかった。
男の独り暮らしにしては小綺麗なワンルーム。意味も無く本棚を整理しながら、大久保は自らの忠実な性分を恨んでいた。何度目かわからないカーテンの開け閉め。ベランダに見慣れない木の葉が増えていて、風雨の強さを思い知る。止みそうにない――溜め息と同時に、遠くで雷が落ちた。強風を伴う雷雨。天気予報ではただの雨だったというのに。
大久保はやはり所在無さそうにエアコンのスイッチを取ると適当な場所へ腰を下ろし、僅かに間を置いて風量を強めた。視界に入れないようにしていた制服が揺れる。隣に干してある自分のジャケットより一回りは小さいだろうか。校則違反の渦巻模様を浮かべる鈍色のシャツを見ながらそこまで考えて、後悔する。
こんなはずではなかった。
逃げ口上にしても御粗末なことばを呑み込みながら、大久保は耳を澄ます。シャワーの音が止んでいた。「大久保センセェ」――間延びした声が聞こえた。聞こえてくれるな、と、まだ微かに濡れている黒髪をぐちゃぐちゃに掻き乱しながら口を開く。
「なんだ!」
「いや、ここのお借りしますよって」
「……ああ、わかった」
こんなはずではなかったのだ。いつかこうなってしまうかもしれないと思ってはいたが、今日ではないと思い込んでいた。その油断が呼んだのか?
「どうしたんです、大久保センセ」
この悪魔を、耳元で囁く妖しい声を。
「なッ――子墨、足音くら、い……」
「あァ、すみません。癖が付いてて」
首に掛けたタオルでにやけた口元を隠しながら返した子墨は、借りたシャツからすらりと伸びた生白い脚に視線をやったまま固まる男の肩に顎を乗せると、間際で掠めた髪の冷たさに目を開いてまた口の端を緩めた。今度は隠しもしない。大久保は顔を顰めつつも子墨と向かい合わせになると、おんなの頬を軽く抓る。繊細な肌膚は仄かに温い。その生命の感触が、おとこのこころをざらつかせる。
「ははっ、まだ乾かしてなかったんですか?」
「十分だろう」
「風邪拗らせても知りませんよ、ぼく」
子墨は大久保の髪を指に巻き付けながら「あ、それとも」となにか思い付いたように、その指先で彼の頸筋をなぞる。ほっそりとしたそれが生唾の嚥下される動きを感じ取っているのは明らかだった。
「夜通しの看病をご希望ならはっきり言ってくれないと」
こんなおんなに惹かれている。
「……その身体、一晩も保つと思えんがな」
男の手が苦慮の果てで慎重に引いた線を、女は簡単に踏み越えてしまう。最初っから無かったものかのように扱って、頭の天辺から腕を突っ込んで心臓を摑むのだ。ぎゅっと握り込まれた彼の拳を視界にも入れず、子墨は大久保にくちづけてみせる。
「試してみます?」
……遅かれ早かれ、道を踏み外すことはわかっていた。
今日ではない、まだ今日ではないと過ごしてきた。
与えながら奪ってやりたい、奪いながら与えてやりたい、奥まで突き入れたときにどんな貌をしてくれるのか――考えなかったとは、決して言えない。
「子墨」
大久保が子墨の脚に触れる。まるで思い通りだろう。まるで、言いなりになったようだろう。愉しそうに破顔っている子墨の知る由もないところで、粘りついた男の慾が煮え立っていた。人道に引き返すつもりを棄てながらおんなのくちびるに歯を立てれば、血の味がする。
「――――後悔するだろうな」
「あなたが? ……ぼくが?」
「どちらでもあるし、どちらでもない」
雨が降り止み、地が固まっても、それが以前とまったく同じではないように。
首を傾げた子墨の女陰は濡れていた。
これが恋情であるならば恋人たちは須く挙りて地獄に行くべきだ。このおんなを抱きながら灼かれてやりたい。そうすれば泣きながら赦しのひとつでも請うてくれるだろうか、と、大久保は“正しさ”を偲ぶ。やさしく傷口を抉じ開けるように指を挿し込めば、態とらしいほどの甘い声。いかずちが鳴っている。