
上等な狗
「斎藤だ」
童が犬を見て犬だと声に出してみるように呼ばれた。
長屋の戸が内側から開かれたことに驚きは無かった。だが、――“隠し刀”が顔を出すとは思わなかった。その顔が俺を認めて微笑むこともまた、予想だにしなかった。「茶でも飲みたいのか?」と聞かれても首を縦にも横にも振れない程度には平静を欠いた俺を見て、隠し刀はまた笑う。それが佩刀していないことに気付いたのはその瞬間で、だから俺はまだ黙るしかなく、不自然に上を見た。俯けば顔を覗き込まれるだろうと考えられる程度には冷静な俺を見て、隠し刀は飽きもせずにまた笑った。
そんなに笑うやつだったのか。と、逆に問うてみようとしたところで背を向けられた。斬ろうと思えば斬れる背中が、入りたければ入れと言っている。
開かれたままの戸を後ろ手で締めると、「茶が無い」などと困り顔をされたので、俺はもう「どうでもいい」と返すしかなくなった。
「斎藤、饅頭ならひとつあったんだが」
「いい」
「そうか」
「なあ――あんた、食えてるのか?」
「心配か?」
「……聞いてるのはこっちだぞ」
囲炉裏を挟んで、ふたり。
俺が溜め息を吐けば、意味を含んでいそうでいないのだろう笑みが返ってくる。――だから、あんたはそんなに笑うやつじゃなかったはずだ。
人が変わったとまではいかない、けれども確かな変化が俺以外の人間との関わりを匂わせた。喜ぶべきことかもしれない。良いことだ。あんたじゃなければ。あんただから、あんたを変えたのが女でも男でも俺はそいつを知るべきじゃないと確信めいてはっきり思えた。
「斎藤。用も無いのに来たのなら、膝でも貸してくれないか」
「は」
「寝ようと思っていたんだ。よい、しょ」
「おい、待て」
敏に、軽やかに、俺の膝上を占領せしめた隠し刀は「ふふ、さいとう」と柔らかに俺を呼ぶ。恋でも愉しんでいるような目で、じっと俺をみたままゆっくりと目蓋を閉じて、また「さいとう」と呟いてみせて。絞めたければ絞められる首を晒したまま責める隙もなく眠りに落ちた姿を前に、俺は狗のように“待て”をしている。