酒と交われば

 沢村が友人を紹介したいと言い出したので、間部は口をへの字に曲げて拒否を示した。嫌な予感がしていたからだ。しかし沢村もまた頑固なもので、あれよあれよと忍者屋敷では真っ昼間から酒宴の準備が進められることとなったのである。
 ――と、ここまではぼくが顔を出す前のこと。

「……いやしかし、既に知己だったとは知らず」
 こういうことには察しが悪い、と掌を額に当てた沢村サンの顔は酒気を帯びて赤らみ、もうそろそろ潰れてしまう頃だろう。そしてぼくの“知己”であるところの男は変わらぬ調子で盃を口に運んで「顔と名前を知っておる、それだけだ」と返す。それだけで済むものか、と毒吐きたい気持ちを酒で飲み下した。
 このやりとりは数回目だった。どうやら間部サンも相当酔っているらしい……顔に出ていないだけで。いつもの和尚は肝心なときに不在。つまり、ぼくだけが素面なのである。
 まあ、こんな面子ではいつまで経っても酔えないはずだ。ほんのり哀しみを背負いながら手酌をしていれば、「ん」と横から手が伸びてくる。たったひとこと注げと言えばいいのに。そう思いながら銚子を傾けてやる。打算がたっぷりと入った杯を手に、間部サンは眉間の皺を少しだけ減らして頬を緩めた。
(本当に隠居したんだな、間部サン)
 数年前の彼なら減らすどころか皺を増やして『貴様に酌をさせると酒が不味くなるわ』とか言いそうなものだ。わざわざ背中を向けたりもして。――遅れてやってきた実感がいたずらにあることないことを想起させる。そういえば、出会った頃から遊女相手にも酌を拒否するような男だった。
「まだ飲むつもりなんですか」
「この程度で潰れるものか」
 潰れてほしいんだけどな。呆れながら視線をあちこちに移していると、目を離した隙に沢村サンが潰れていた。放っておいても死にはしないだろうし、このままでも構わないか。それに、見せるのが申し訳なくなる弟子などやって来ない。そもそも居ないものはいくら待っても来ないのだ。
 お開きの音頭を取るはずの人が役目を果たさぬまま潰えたので、ぼくは根の生えかけていた腰を上げて間部サンを見る。ほんの少しだけ血色の良くなったその人は、目線を返さないまま「どうした」と問い掛けてきた。
「そろそろお暇しようかと」
 外を指せば陽が沈みかけている。ここから寝ぐらまで歩くとなるとぼくの足ではすっかり暗くなるかもしれないが、余裕があれば湯屋に寄っていきたいものだ。そうと決まればさっさと退散しよう――始まったばかりのときはなんだかんだ楽しかったものだから、ずるずると長居してしまった。もっとはやく逃げていればと思いながら草履を履いた。
 そして一歩踏み出そうとしたとき、「待て」肩に男の手が置かれる。
「…………送ってやろう」
「ええ?」
「私では不服か?」
「滅相も無い。まさかあの――」
 あの、間部の青鬼と馬に乗るとは。
 呼び笛の音を聞いて風のように駆け付けた馬は、主人から嗅ぎ慣れない匂いがするせいか、文句でも付けたそうに鼻を慣らした。

 ひとりでは乗れないと言うと、間部サンは「知っておる」と言い捨ててぼくを馬に乗せた。すぐ後ろに間部サンが乗る。近い。地面が遠い。どうしよう。
 苦し紛れに眼下のいきものを撫でれば、黒馬の毛並みは意外にも良く、手入れを欠かしていないのだと知れる。去り際に一層輝く斜陽を受けて艶々と描かれる光の筋は、天にて流れる川のようにも見えた。じっと見つめていると、ぼくの肩の辺りから伸びる男の腕が手綱を締めて、馬が歩く速度を落とす。賢いいきものだ。なるべく揺れないようにと気遣っているのがわかった――その対象がぼくではなく間部サンだとしてもだ――安心すると同時に、腹の中に溜まった酒が一気に回ってきたように思う。馬上からなのもあるだろうが、景色もいつもと違って見える。
「日本橋の写真館だったな」
 沢村サンから聞いたのか。それとも、ずっと知ってて、黙っていたのか。後者だといい。ぼんやりとそう思いながら頷いて、少しだけ間部サンに寄り掛かった。着込まれた鎖帷子の感触は心地好いものではないけれど、貴重な機会だと思えば悪くなかった。ここまで気を緩ませている彼は初めて見たものだから、それに、ぼくもやっと酔えたのだから、このくらいは許されたい。
「長いのか」
「ええ。ベアトという男に、随分前から世話になってます。写真の着色画家として雇いたいと口説かれまして」
「……ほお」
「そうだ、今度間部サンの姿も写真術で残してもらいましょう。ぼくにも扱えるような写真機があるんです、使ってみると面白いものなんですよ、例えば――うわ、っ」
 急に早足で駆け始めた馬のどこへしがみつけばいいのかわからず、ぼくは間部サンの背を後ろ手で掴む。
「ま、間部サン、やっぱりぼく歩いて帰る」
「舌を噛むぞ」
 なんて脅しだ。思わず舌を奥へ引っ込めたのを知ってか知らずか、間部サンは小馬鹿にしたようにせせら笑う。彼の着物を握る手に力を込めれば、「なに、落としはせん。騒げばどうなるかわからんがな」ときた。この人は馬から一欠片でも優しさを学ぶべきだ。
 けれど陳腐な脅し文句に負けたぼくはおとなしくしようと――して、とあることに気付く。それは景色の違和感、その原因だった。
「…………間部サン。あの、こっちじゃないですよ」
 このまま進めば上野だ。遠回りをするにしても、程がある。酔っているとはいえ、この人に限ってまさか道を間違えたなんてこと――
「黙れ」
 戸惑いに返ってきたのは、荒い語勢の命令だ。
 続け様に「貴様のことだ、馴染みな茶屋のひとつもあろう?」と囁かれ、手綱を握ったままの拳が緩やかにぼくの腹を押す。在りし日の記憶が無理やり呼び起こされて、こんな状況だというのに力が抜けそうになる。
「言えぬほどあるのか」
「……いや、いやいや、間部サンを連れて行くようなとこじゃ……いや、そうじゃなく――」
 何を言っても、言葉を重ねれば重ねるだけ墓穴を掘っている気がした。
 不忍池へ近付くほど往来の者も大胆に性の匂いを漂わせ、郷の決まりへ従うように間部サンはぼくの体を引き寄せる。馬上のぼくらは既に好奇の目に晒されていて、ここで逃げては余計に目立つことだろう。
 決断を迫る唇がこめかみに押し当てられ、髭がちくちくと耳に触れる。淡い快楽に呑まれた正気がか細い悲鳴を喉から洩らす。
 限界だった。
「わ……っわ、わかりましたよ、わかりましたから」
 これ以上はやめてください。余計なものが飛び出てきてしまわないよう、小さなちいさな声でそう言えば、間部サンは静かに、たぶん、笑っていた。

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